2016年6月28日火曜日

京都66,902歩のマーチ(3)_重森三玲のお庭探訪・重森三玲庭園美術館

さて、午後からは重森三玲の旧邸宅を公開している「重森三玲庭園美術館」へ。
…午前中に少々盛りこみすぎて、予約時間が迫り(庭園美術館は予約制なのでした)慌ててお昼抜きで参りました。(貴重な京都の昼ごはん1回分が…がんばれオレ…!)

京都大学の脇を通り過ぎ、左京区吉田神社の表参道まで足を伸ばすと重森三玲庭園美術館があります。

元は吉田神社の神官が住んでいた邸宅を昭和18年に三玲が譲り受けて自邸とし、自分好みに仕立て直して後半生を過ごしたそうです。
昭和24年(1949年)に三玲が主宰し中川幸夫のほか土門拳や小原豊雲などが参加した前衛いけばなの創作研究グループ「白東社」の集まりもこの邸宅で行われ、また、彫刻家のイサム・ノグチも何度も訪れていたとか。三玲は、訪れる数多くの学者・文化人、ときに高名な禅僧まで、自ら床の間の花を生け茶を点てて迎えていたそうです。戦後京都の文化活動のサロンとしてもっとも強い磁場を持っていた場所の一つといえましょう。

(*重森三玲旧宅は、東側・書院庭園部が「重森三玲庭園美術館」として一般に公開され(予約申込制)、三玲の遺族によって管理・運営されています。西側の旧宅主屋部は独立した施設「招喜庵」として文化芸術分野で活用されており、通常、一般公開は行われていません。)

なにしろ美術館ですので、撮影させていただいた写真をどこまでこのような拙ブログに載せてしまっていいのか分かりませんが…、関係者の方、NGならご一報ください。


三玲が好んだという書院の中からみる枯山水庭園。フレーム効果で一枚の絵画のようにも見えます。三玲はこの座敷の奥から見える四季折々の景色を楽しみ、また、縁側に煙草盆を前に正座して自作の庭を眺めながら思索に耽っていたそうです。

この平らな大きな石は「礼拝石」といって、もともと神官の住まいだった古い庭の時から神事のために庭の中央にあったものだそうです。この礼拝石だけは残して、三玲が好んだ徳島産の青石(緑泥片岩)で石組を追加したのだとか。

三玲は礼拝石の後ろを蓬莱神仙と見立てて、鶴石組の三尊石組を「蓬莱島」とし、立石で東から西に「方丈」「瀛州(えいしゅう)」「壺梁」の3島を配しているのだそうです。

こっち側(東方)にあるのが「方丈」かなぁ…。あの横になっているのが亀石でしょうか…。(間違っていたらすみません、石を見る目が育っておりません…泣)

そして何しろユニークなのがこの「舟形石」。宝船のようにも、古代埴輪の舟のようにも見える。よくもこんな変わった形の石を見つけ出したものですね。三玲は庭に据える石は必ず自分で山に出向いて探してきたそうです。

浮かんでいるように見えますが、意外に深く地中に埋まっているらしい。

植生にはあまり手を加えておらず、また三玲はあまり花木を好まなかったそうですが、奥様の希望で2本だけ桜の木を植えたのだそうです。

美術館の館長は、三玲のお孫さんにあたる重森三明氏。いろいろ詳しくガイドしてくださいました。

苔の管理は難しく移植したものは結局枯れてしまうのだけど、その後生えてきたものは定着するんだとか。スギゴケを中心に10種類くらいあるんじゃないかとのこと。

こちらは非公開の茶室「無字庵」。

州浜の波と呼応するように敷石もウェーブしています。鉄分を多く含んで赤っぽい石は丹波鞍馬石で、石をつなぐ目地にもベンガラを加えて色調を合わせるこだわりぶり。

茶室の庭でもありますので、飛び石の先に何気なく結界石が置かれております。おまじないかと思ってしまいました。

ざっぶーん、大海は茶室の奥にまで及びますか。
こちらは公開されている方の茶室「好刻庵」、昭和44に三玲が自ら設計して建てたそうです。照明器具や調度品も凝っていてこれもオリジナルデザイン。そしてここにも市松模様が使われております。桂離宮をリスペクトしているのだとか。

この東角の縁側が三玲のお気に入りの場所だったらしいです。
このほかにも、遊び心ある石が隠れていたり、樹木についてもエピソードがいろいろあって、見学時間はあっというまに過ぎてしまいました。
日本庭園はメタファーがいっぱい。知れば知るほど、広く複雑な宇宙が広がっていきますね。


このあと、日本の電車発祥に深い関係ありの琵琶湖疎水の記念館〜蹴上インクラインの方まで足を伸ばしてみたのですが、それはまた別の機会に…。
帯状疱疹もまだ癒えない体力で、ちょっと欲張りすぎてヘトヘトになった京都2日目でしたー。

【本日歩いた歩数】29,199歩

参考文献:
「重森三玲の庭案内」別冊太陽の地図帳026(平凡社 2014年)
「重森三玲 永遠のモダンを求め続けたアヴァンギャルド」シリーズ京の庭の巨匠たち1(京都通信社 2007年)
重森千靑「日本の10大庭園 」(祥伝社新書 2013年)

2016年6月16日木曜日

猿舞座仙台公演2016覚書、アーンド、さばね山蕎麦

今年も猿舞座がやってきました。
6月12日(日)は仙台市歴史民俗資料館。午前11時30分〜、午後2時30分〜の2回公演。
なんと耕平君が公演するようになってから9年連続でお世話になっているということが判明。そんなになりますか!?

今年は、椿を2回とも登板しました。
ちょっと顔見世…、もう帰りたい椿、拝む若頭。

環が本番でなかなか棒に登ってくれないのが、耕平君がいま直面している課題です。

ジャンプはきれいなんですよねー。

垂直跳びだもんね。

漫談コンビのような、親方とタクさん。(いま、猿を迎えに行ってます)

午後の部でも、見事なジャンプを見せる環。
ちょうどコボスタでは広島vs楽天の交流試合がおこなわれていましたが、「はばたけイヌワシ!」なんて大技に気合いをいれていたら、本当に楽天が逆転勝利。カープファンの耕平君は複雑そうでした ( ̄◆ ̄;)

れきみんのお客さん
  午前310人
  午後201人
でした。

翌日は、これまたいつもお世話になっている、午前中は福寿幼稚園、午後は東北福祉大学で。あいにくの雨で、大学ではいつもの広場が使えず、地下の通路で…ということになりまして、お客さんも50人ほどでしたが、いつもは裏方をしてくださる職員の方々にもみていただいたりして。でも、来年も誘っていただけたので有り難いです。

来年は10周年!いろいろお世話になっている10−BOXでもなにかやれそな気配です。
がんばろー。

………

そんなわけで16日。
虫六はお休みもらって山形県は舟形町におりました。
猿羽根山地蔵尊から見下ろす舟形の集落。絶景かな。

このお地蔵尊の脇に、全国を回って旨い蕎麦を知り尽くす猿舞座がいちおしの「さばね山蕎麦」があるのでした。若きご住職がお勤めの傍らに作っているこのお蕎麦の噂を、虫六は彼らがやってくる度に自慢され、妄想ばかりを膨らませていたのですが、今日いよいよ頂けることになりまして、遠路やってきたのでありました。へへへ。

さっそく「さばね山そば」1300円 を注文。

そば茶をいただき話をしながら待っていると、まずはゴマ豆腐が登場。
みたらし餡があましょっぱくて美味しい。

そこに「取り分けてくださいねー」と、ガツンと山菜の漬け物。
山形といえばこれ!蕨の一本漬け、蕗煮、大根の甘酢漬け。

漬け物で盛り上がっていたら、鰊の甘露煮が。
正直、身欠き鰊は食べなくて良い虫六でしたが、この甘露煮は美味しい。完食しました。

さてさてお待ちかねのお蕎麦は、2種類でてきます。
最初は更科蕎麦。香り、歯ごたえ、申し分なし。からみ大根を入れたら、また格別でした。
若頭は「うぐぐ」とか呻きながら食していたぞ!

次は粗挽きの田舎蕎麦。虫六が知っているのは太めの固いやつのイメージでしたが、ご覧のとおり細くのどごしのいいお蕎麦。しかも蕎麦って甘いのね。あーん、知ってしまいましたぞ、蕎麦の旨さを。こちらは、からみ大根に黒七味を少々かけて楽しみ2倍。さらっと完食してしまいました。

デザートは梅ゼリー。
お口直し…などは必要ないのですが、これもさっぱりして素朴な美味しさ。
3時間も掛けて来た甲斐がありました。

食後くつろぐ、親方と、(車が不調で山道の運転を回避したい虫六にむりやり誘われて、付き合わされた…つまりアッシー君をさせられた)I姐さん。(←でも、美味しい蕎麦に満足気でした)
この窓ごしの柔らかい光が、松の一枚板で出来たテーブルにしっとりと差し込んで実に綺麗です。

一方こちらは、昨日猿まわしを見られなかったという若住職ご夫妻に、小さい猿(椿)を見せる若頭耕平君。若・若でいい交流ができてますね。
それにしても、このご夫妻はなんだかとっても好感がもてる自然体で優しい雰囲気のお二人なのでした。また、行きたいなーって思いました。
癖になりそであります。

2016年6月13日月曜日

京都66,902歩のマーチ(2)_重森三玲のお庭探訪・東福寺界隈

京都二日目はお仕事モードの家人Tから離脱して単独行動。
かねてより見たいと思っていた昭和を代表する作庭家・重森三玲が作った庭を訪ねて歩くことにしました。

とはいえ、正直に申せば虫六はお庭の知識などミジンコもありません。そんな素人がなぜに「重森三玲」か?といえば…
戦後、芸術のあらゆるジャンルに前衛運動が巻き起こりますが、その潮流の中に「いけばな」もありました。なかでも「いけばなの革命児」と呼ばれた中川幸夫(1918〜2012)は、流派にとらわれていた日本の華道界の常識や、生け花の定法をも越えて、独創的としか表現できないような全く新しい方法で「花の命」を表現した傑出の芸術家でした。その中川の才能を最初に見いだし、世に出し、支援したのは重森三玲(1896-1975)という作庭家だったということが、虫六の心のメモ帖にずっと残っていたのです。
そんな目利き中の目利きはどんなお庭を作っていたのだろう…と気になっていたのですが、どうやら「京都に行けばいっぱい見られるのか…」ということを知り、小鼻を膨らまして上洛のチャンスを伺っておりましたのです。

そんなわけで、まず足を運んだのが、三玲の最高傑作と言われる臨済宗東福寺本坊庭園でございます。

慧日(えにち)山東福寺は、摂政九條道家が家の菩提寺として鎌倉時代に造営した京都最大の大伽藍を擁する禅宗の寺院です。奈良の東大寺、興福寺にあやかって「東」と「福」の字を頂いて名付けられたそうで、嘉禎2年 (1236年)より建長7年(1255年)まで19年を費やして完成したとか。

通天橋から眺める庭には無数の紅葉が 植栽されており、秋ともなれば見事な紅葉を目当てにたくさんの人が訪れる名所だそうです。

今は緑陰さわやかな季節ということで、おそらく秋に比べれば観光客は落ち着いた感じなのかもしれません。開山堂(あ、このお庭は三玲作ではありません)の方から回り道して …

さあ、目指すはあの方丈です。

方丈というのはもとは僧侶のお住居だったそうですが、後年には応接間として使われるようになったそうです。もともと“東福寺方丈「八相の庭」”という名称でしたが、2014年に国の登録をうけて「国指定名勝 東福寺本坊庭園」と改称。明治14年に仏殿、法堂、庫裏とともに火災で失われましたが、明治23年(1890年)に再建。方丈の四面を囲む「八相の庭」は三玲(1896-1975)によって昭和14年に完成されたもので、「創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉」と言われているそうです。

 まず、庫裡から入って渡り廊下にでますが、その左手に南庭、右手に東庭があります。こちらは東庭で、この円柱に穴があいた石は、東司という…つまりトイレの礎石だそうです。どうしてこれかというと、三玲がこの仕事を引きうけたときの東福寺側からの条件が、何をしても文句は言わないが「禅宗では一物と雖も捨てることはできない」ということだったそうで、もう禅問答みたいですが、そのような制約のなかでめいいっぱい智慧を絞り、イマジネーションを働かせて傑出した造形を生み出した作品ということなのでしょう。ちなみに、このトイレの礎石は7つあり、その配置は北斗七星を象っておりまして、東庭は「北斗七星の庭」と称されています。

掻き整えられた白砂の波紋は、天の川のさざ波か、星の瞬きか…。

廊下を挟んで反対側はどーんと広がる南庭「八相の庭」。

(あ、そのまえに若干の聞きかじりを…)
日本庭園の基本は「池」で、池の中には「島」が造られ、池の向こうには「山(築山)」が築かれます。これが基本の構成要素だそうです。とくに池の形は庭園の個性を決定するもので、さまざまな視点からの違った風景を現出します。池水の流れを中心に、草木が植えられ、橋が架けられ、不変の要素である石が据えられます。石は単独で据えられる場合もありますが、多くは複数の石を組み合わせて表現され「石組」と呼ばれるそうです。池を中心に造られた庭を「池泉庭園」といい、石組を強調し水の代わりに石や砂を用いて水の流れを表現した庭を「枯山水」といいます。移ろいやすい要素を排した「枯山水」は抽象的な空間を生みだし、禅宗の寺院で用いられて発達しました。いずれも庭という狭い空間に、大海や山水、滝などの雄大な風景を表しているそうです。

「八相の庭」では、手前に見える4つの石組で、古代中国の神仙思想で東方の大海に仙人が棲んでいる「蓬莱」「方丈」「瀛州(えいしゅう)」「壺梁」の四神仙島を表しています。6mもある特大の石が横たわっていますが、立石が基本の作庭の常識からすると、当時はとても斬新な表現だったそうです。複雑に渦巻く白砂は、仙島には容易に近づけさせない荒海ですね。

反対側の築山は京都五山を表しているそうです。

いちばん目をひくゴツゴツと切り立った大石が「蓬莱山」。丹後の山から運び込まれたものだとか。

廊下を巡ると、あでやかなサツキの植栽が市松模様に刈り込んであるお庭にでました。
押し寿司みたいな立体感(ちょっと変な例えか…)
ここは「井田の庭」と名付けられて、サツキの市松模様は三玲の故郷である岡山の「後楽園」の井田の風景を枯山水で表現したものだそうです。当初は、サツキの植栽もまだ背が低かったそうで、花の時期でない季節には青々とした枝と白砂が井の字に整然と組まれた様子は、水を湛えた井田のようであったのだろうとイメージできました。

しかし、見頃のサツキはまた格別でなんだか得した気分です。三玲が作庭した頃からだいぶ育っていると思われ、こんもりお花を付けるように手入れするのは植木やさんも大変そうですね。たしかにこんなお庭は見たことないな。

植栽を矩形に区切る葛石は、本坊敷石の縁石などのリサイクルだそうで、古材ゆえにサイズがまちまちで揃ってないけど、それもうまく使っているそうです。


次の庭にいく手前に山の紅葉を一望出来る通天閣台があります。

うわっ、な、なんだこの幹のシュミラクラ現象感は…。

さて、方丈の4面目は北庭で「小市松の庭園」。ここにも市松模様登場…。市松模様と言えば、歌舞伎役者・佐野川市松が好んで衣装に使いブームになったという日本の伝統的なデザインで、桂離宮の襖や床に、また修学院離宮などでも使われていますが、それを三玲が庭の意匠として応用したもの。(あ、そういえばオリムピックのエンブレムにも使われていましたね)今みてもそうとう斬新で、彫刻家のイサム・ノグチは「モンドリアン風の新しい角度の庭」と、また絵本作家のレオ・レオーニは「石と草がフーガのように食べ合っている」と評して驚嘆したそうです。
ここで使われた四角い石も古材で、元勅使門から打たれていた敷石を再利用したもので、煩悩の数と同じ108枚使用されているそうです。手前から向こう側にいくにつれて、整然とならんだ幾何学模様がほどけていくような意匠です。なんでも、向こう側の石の隙間は現在は苔で覆われているのですが、当初は白砂の部分もあったそうなので、北庭は苔の生育にとても適した環境で繁茂しちゃったんですね。三玲がこの寺の庭を完成させたのは昭和14年(!)ということで、すでに77年も経っていますので、時間をかけて苔もこんもり育っちゃったと…、枯山水といえど庭は育つんですね。

三玲はあまり借景をしないそうなのですが、背景の通天橋の紅葉が色づいたら、苔の緑の市松模様と対比して、それはそれは綺麗でしょうね(しばし妄想)。
虫六の108以上はゆうにあると思われる黒い煩悩もあの山の向こうに消えていくなんてこと、あるのでしょうか。

方丈を1周したら、最初に見た東庭で庭師の方が白砂の手入れをしているのに遭遇しました。

さて、東福寺の近くには他にも三玲の造った庭があります。

東福寺の塔頭、光明院

この方丈前の庭園がそれで、禅語の「雲無生嶺上 月有波心落」からいただいて「波心庭」と名付けられています。とても開放的な印象の庭園で、「虹の苔寺」という異名があるとか。

池泉式の枯山水。三箇所に配置された三尊石組から放射状の光が差し込むイメージは「光明」の名から。枯池の波打ち際にごろごろ埋め込まれた石は激しい波が打ち付けられて泡だっている様子を表しているとか。背後のサツキ・ツツジは雲紋になぞらえて刈り込んであり、さらにいまは緑の紅葉が覆っています。その雲の上に茶亭蘿月(らげつ)庵があり、窓や障子などに月が昇る姿を形どっています。今回は羅月庵にはいけませんでしたが、紅葉の季節はここでお茶をいただくこともできるそうです。ここも、秋が見頃なんですね…。

お庭と直接関係ありませんが、玄関の叩きの柄がかわいい。

さあ、次はやはり東福寺の塔頭で、霊運院へ…と思ったら、本日休館!あちゃー、残念!!
本当は東福寺龍吟庵の「不離の庭」と「龍門の庭」を見たかったのですが、こちらも公開は期間限定(3月と11月)と決まっていて、今回はあきらめました。


気を取り直して、今度は泉涌寺まで歩きました。
真言宗泉涌寺派の総本山。皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれるそうで、ちょうど特別拝観ができた御座所には皇室ゆかりの品々やお部屋が公開されていました。

御座所のお庭も公開。小さいながらも無比の環境の中に自然と人工の巧の業を織りまぜたもので、四季折々の風情が楽しめ、昭和天皇が歌をよんだとか。しかし、不思議なことに「これは三玲の庭じゃない!」と分かるようになっている自分がありました。

いえ、泉涌寺に行った目的は三玲77才の作で妙応殿にある「仙山庭」だったのですが、ここも公開していないと断られてしまいました。ガイド本には「公開」「無休」って書いてあったのに〜!

しかし、ただでは起きません。
泉涌寺の塔頭・善能寺には、三玲76才の作、「遊仙苑」がございます。
善能寺は806年に弘法大師が創建といわれる古いお寺ですが、戦後1971年におきた航空事故「ばんだい号墜落事故」の殉難者を祀った祥空殿を建律し、航空殉難者のみ霊をご回向しているそうです。

そのような由縁をもつお寺のお庭として、三玲は池泉と枯山水を融合して、空からみた風景というものをテーマに、苔の築山を山や島に池を海に見立てて作庭したのですが、残念ながら現在は池に水が張られておらず、リアル枯れ池となっていました。水鏡に空が映り込んでいる様子などを妄想しながら、庭って手が入らなくなるとあっという間に荒廃するんだな…とか考えてしまいました。

(まだまだつづく。…少々気長にお待ちくだされ。)

参考文献:
「重森三玲の庭案内」別冊太陽の地図帳026(平凡社 2014年)
重森千靑「日本の10大庭園 」(祥伝社新書 2013年)