つづきまして、そのまま劇場にとどまり第三部を。
幕間に観劇のお楽しみで生写真を買いに行ったら、なんと!写真コーナーはあるものの、猿之助以外の主要俳優の写真がまだ出ていない…えぇええ、なんで?もう19日だよぅ。そういえば、写真付きの筋書きも出てないぞ…なにかあったのか?(…ってことがありました)
【第三部】
一、新古演劇十種の内 土蜘(つちぐも)
叡山の僧智籌実は土蜘の精 橋之助
平井左衛門尉保昌 獅童
源頼光 七之助
巫女榊 児太郎
渡辺源次綱 国生
坂田主馬之丞公時 宗生
碓井靭負之丞貞光 宜生
卜部勘解由季武 鶴松
太刀持音若 團子
石神実は小姓四郎吾 波野哲之
番卒藤内 巳之助
番卒次郎 勘九郎
番卒太郎 猿之助
侍女胡蝶 扇雀
二、新作歌舞伎 廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)
酒井宗十郎 勘九郎
花魁浦里 七之助
牛太郎の友蔵 駿河太郎
留守居役田中 亀蔵
留守居役秋山 彌十郎
山名屋平兵衛 扇雀
『土蜘』。第二部でもブツブツ言ってしまいましたが、橋之助ファンの皆さんにも申しわけないのですが、何が悪いっていう訳は説明出来ねど、どうも退屈に感じてしまうのですよね、成駒屋さんの踊りは。立派さは感じるけれど、物の怪らしい禍々しい存在感は感じられないのでありました。(*あくまでも個人の感想です。)
そんな感じだったので、間狂言に猿之助丈と勘九郎丈が出て来た時のご馳走感はたまらんでした。巳之助丈と児太郎丈も加わって、見応えがありました。猿之助丈の踊りは柔らかくて面白い。猿之助・巳之助のダブルキャストでやってくる秋の巡業が楽しみであります。
この間狂言にはもうひとつお楽しみがありました、それは勘九郎丈の次男・哲之くんのお披露目。仮面を被ってじっとしている役だったけど、お利口にお勤めを果たしていました。子役が大活躍の夏芝居です。
そういえば、前日、虫六は江戸博の「大妖怪展」で、国芳が描いた「土蜘蛛」の錦絵を拝んできたばかりでしたよ。源頼光さまは化け物退治のスペシャリスト!妖術で病まされているけど勇ましいのでありました。絵を見たときは(このお小姓、誰!?)と思いましたが、お芝居をみて分かりました。僧智籌の正体を見破る太刀持ちの音若で、いい役どころ、團子クンはここでも好演です。扇雀丈の胡蝶も風格があって良かったです。
*
最後は『廓噺山名屋浦里』。タモリさんの話から笑福亭鶴瓶さんが落語にした廓噺を勘九郎さんが新作歌舞伎に仕立てたってことで、だいぶ話題になっておりました。
虫六は鶴瓶さんの落語を聞いていないので比較出来ませんが、お芝居だけの感想としては面白かったです。
堅物な田舎侍・宋十郎(勘九郎)が花魁を同行できずに留守居役仲間に馬鹿にされている御茶屋に、「花魁道中がこっちにやってるぞー、ここに入ってきたぞー」と声をかけて、舞台中央の襖が開くと、そこに浦里(七之助)が現れる場面なんか最高でした。
助六やら籠釣瓶やらを知っている観客は、想像を膨らませてワクワクするわけですが、それを裏切らない絢爛豪華な花魁オーラ全開の七之助。痺れるほど美しい〜!この存在感は、話から己が脳内でイメージするような陳腐な創造力では補えない説得力がありますね。
隅田川に屋形船がやってきて、見初めの場面で花火!なんかもキタキタって感じです。
芝居の寸法にあうってこういう事だよね。
堅物な田舎侍・宋十郎(勘九郎)が花魁を同行できずに留守居役仲間に馬鹿にされている御茶屋に、「花魁道中がこっちにやってるぞー、ここに入ってきたぞー」と声をかけて、舞台中央の襖が開くと、そこに浦里(七之助)が現れる場面なんか最高でした。
助六やら籠釣瓶やらを知っている観客は、想像を膨らませてワクワクするわけですが、それを裏切らない絢爛豪華な花魁オーラ全開の七之助。痺れるほど美しい〜!この存在感は、話から己が脳内でイメージするような陳腐な創造力では補えない説得力がありますね。
隅田川に屋形船がやってきて、見初めの場面で花火!なんかもキタキタって感じです。
芝居の寸法にあうってこういう事だよね。
でも、特に勘九郎丈が演じる宗十郎役には、正直なところ感情移入しにくい違和感が残りました。
…だって例えばですよ、東京営業所に配属になった県職員が懇親会で他県職員に馬鹿にされたくないからって、綾瀬はるかの事務所に「お金ないけどはるかさん一晩貸してください」っていうような話でしょ。極端な話。しかも浦里の方から間夫になって欲しいだなんて…。寓話だと思っても、こういう男はどおよ?でした。
もちろん、歌舞伎にはありか?それ?というような破綻した人格の人も、おめでたい展開もありますが、芝居的なリアリズムと役者の魅力で持って行かれてしまうってことありますので、其れを言っちゃあーお終いよ、という野暮な意見ではありますが。このついていけない感、なんでかなー?
もちろん、歌舞伎にはありか?それ?というような破綻した人格の人も、おめでたい展開もありますが、芝居的なリアリズムと役者の魅力で持って行かれてしまうってことありますので、其れを言っちゃあーお終いよ、という野暮な意見ではありますが。このついていけない感、なんでかなー?
花魁がズーズー弁で身の上話をしたり、女郎屋の親父が実は情に厚いいい人だったとか、ズッコケるような宋十郎の堅物ぶりも、落語の中のやりとりなら面白いんだろう、ホロッとくるんだろうと想像できるところも、役者の身体を伴ってしまうとその軽やかさが失われてしまうことってある。それが宋十郎の魅力を損なうことになってしまったような気がするのでありました。もしかしたら、元の話に芝居に仕立てて堪えるだけの人物造形がないのかもしれないけれど、そうだとしたら今後この人物をもっと魅力的に作っていくという方向にこの芝居の伸びしろはあるのかな。そういう意味でまだまだ面白いお芝居になりそうな作品だと思うので、うまく育てて行って欲しいと思うのでした。
本当は、見初めの場で二人とも一目惚れしていたのにね。
本当は、見初めの場で二人とも一目惚れしていたのにね。
(…「恋」がなせる技で、周囲のみんなが出汁に使われていたという筋書きだったのかな?分かりにくいけれど。)
コクーンの『四谷怪談』も面白かったし(←すいやせん、ブログサボりましたが観てました)、中村屋には小さいエラーに臆せずトライし続けて欲しいです。