2015年2月4日 八王子市の公園にて |
思い出すのは、2003年11月10日の仙台駅近くの今は亡き喫茶店「goodman」で梅田さんと過ごした時のこと。
その前日、8-9日に私たちが主催した“長編紙芝居『猫三味線』”という3時間におよぶ紙芝居公演を、2ステージ、大熱演で出演していただいての翌日のことで、お帰りになる新幹線が来るまでと、コーヒーを飲んで過ごしていただいたのでした。当時、梅田さんは75才。まだまだお元気でしたが、さすがに連日大舞台を踏んでいたので、お疲れだったのでしょう。昨日の余韻に浸りながら口数少なにポツポツと会話をしていたのですが、ふと何かを思い出したように微笑まれ、「しかし、人の人生というのは面白いね。70を過ぎてこんな面白いことが待っていたなんて…」と愉快そうにおっしゃってくださいました。その時、私もそれまでの人生で味わったことのない胸のすく感慨を覚えたことが思い出されます。
二十世紀が終わる頃に「街頭紙芝居」というカオス怪物みたいな手強い大衆文化をテーマに研究をはじめた私は、実演者を求めて梅田さんとの出会いがあり、一からいろいろと教えていただきました。絵があっても実演がなければ、演奏されない楽譜と同じだということを実感したのは、梅田さんの実演に出会ったからでした。当時、仙台市にはもう現役の紙芝居屋さんはいなかったのですが、絵の保存と実演の伝承をセットで“動態保存”していかないと文化は伝えられないという基本的な考えも、梅田さんとの交流の中ではぐくまれていきました。
梅田さんは、飴売りはせず、紙芝居を芸として高めてみたいとおっしゃっており、その芸風は、かつて紙芝居をはじめ大衆演劇や漫才をされていた経験に裏打ちされ、さらに落語や講談、小唄…など芸事に精通された教養があふれ出てくるような紙芝居でした。大衆の中に豊穣な芸事の地盤があればこその紙芝居文化だったんだ、ということを実感させてくれる実演でした。そしてその思いが結集した舞台が『猫三味線』だったのです。
『猫三味線』は梅田さんの長年の持ちネタで、それまで日本橋亭や四ッ谷・石響で長編ライブに挑戦されていました。その演目をなんとか仙台で上演できないかと、市の企画コンペに応募した結果、採択されて、ようやく形にすることができました。仙台では240人定員のホールで、本物の紙芝居舞台の他に、原画を大小のスクリーンに投影し、三味線・箏のプロの生演奏(山本昌子さん)を劇判としてつけました。大写しになった紙芝居絵(ケイ・タジミ画)の臨場感と梅田さんの外連味たっぷりな語り、加えて当意即妙の三味線のからみが絶妙で、サイレント映画のようでもあり、見世物のようでもあり、また舞台と満杯の客席の一体感も昂揚するもので、ステージ・エンターテイメントとして新鮮な衝撃がありました(これが紙芝居の水平線をみる経験となり、私たちが自前で二十一世紀紙芝居『蛇蝎姫と慙愧丸』をゼロから作っていくきっかけにもなったのは、また別なお話です)。
この公演の前後には、数年にわたり10−BOXなどの会場を借りて、もう少し小さい規模のライブを何回かやっていただいたり、また「まちげき」にも出演していただいたこともありました。地元の俳優・小畑次郎さんとの仙台での古い紙芝居の上演活動にもいろいろお導きをいただきました。また、梅田さんを慕う若者たちが街頭紙芝居に手を染めはじめるということもあり、仙台での梅田さんの影響力は非常に大きいものがありました。
もちろん梅田さんは東京を中心に活躍されていたのですが、全国でもひっぱりだこで、その上演の巧さは、いわゆる教育・手作り系の紙芝居の方々からも高く評価されていました。そのような意味で、昔から溝が深かった教育系と街頭系の、二系統の紙芝居の橋渡し役としても、たいへん大きな存在だったといえます。また、玄人の演芸関係者にもファンはいらしたようで、生前には梅田さんのインタビュー本やDVDの発売計画もあったように噂には聞いています。私たちは親しみを込めて気軽に「梅田さん」とお呼びしていましたが、もっともっと畏敬の念をもってお相手させていただくべき方だったのではないかと思います。
しかし、人を選ばず丁寧にお相手してくださる方でしたので、心のこもった手紙で力をもらった経験は、きっと私だけのものではないでしょう。
そんな梅田さんですが、ご本人の芸歴にはブランクがありました。健康を害し、また、家庭を持つために芸人の道をあきらめて堅気の仕事についたと伺っています。その間も好きで寄席に通ったり、講談落語研究会に参加したり、国立劇場の脚本コンテストで入賞したこともあったそうです。定年にさしかかる頃に、上野の下町風俗資料館で紙芝居の展示をみて、ボランティアではじめた実演。喫茶店でのつぶやきは、そんな人生を振り返っての一言だったのではないかと思います。
昔のような商売は成り立たない社会に、紙芝居を復活させるのは容易ではなかったはずです。飴売りをしないかわりに、資料館やお祭りなどのイベントでギャラをもらって上演するというスタイルの確立に努力なさっていたし、絵も上手なので新作の制作にも精力的でした。晩年、体力が落ちていったり、苦しい闘病生活のなかで、絵の保存や後継者のことなど行く末にいろいろ悩むことは多かっただろうし、胸の内で闘っていることも少なからずあったのではないかと思うと、何のお役にも立てなかった自分の無力が残念です。今年7月7日の七夕の日に、子どもの文化研究所の「紙芝居3賞」の授賞式に病を押してご出席された梅田さんにお会いできたのが、今生の別れとなりました。最後に拝見した紙芝居は、『恩讐の彼方に』でした。
軽妙洒脱な江戸前の語り口、自分で突っ込みを入れながら突いて出る替え唄、あの明るい舞台をもうみられなくなったのは、本当に寂しい。まさに名人芸でした。
弟子は取らない主義だったとはいうけれど、梅田さんを慕い、紙芝居を続けている後継者たちは頑張っています。せめてその紙芝居師の皆さんのことを、梅田さんにかわって応援していきたいと思います。
心から、心からご冥福をお祈りします。
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