2016年9月20日火曜日

国立近代美術館「トーマス・ルフ展」

竹橋の国立近代美術館では「トーマス・ルフ展」が開催されています。

最近、現代アート系にはなさけないほどアンテナが立ってなくて、この作家の名前は知りませんでしたが、なんとなくこのポスターにひかれるものがあり、たまたま日帰りの切符をもらったので上京して(すみません、TYO大好きです)、虫六子と美術館巡りで寄ってみました。ちょうど、奈良良智さんが選ぶMOMATコレクションという企画展もやってたしね。

会場に入ったら、巨大なポートレート写真がドドーン。トーマス・ルフが最初にブレイクした「Porträts(ポートレート)」というシリーズだそうです。普通3×4cmくらいにプリントして履歴書なんかに貼る証明写真ですね。ルフの友人たちをモデルに撮影した写真だそうですが、それが人よりも大きいサイズでずらりとど迫力で並んでいました。いまですと、こんな巨大カラープリントというフォーマットは珍しくないですが、この作品は現代写真の先駆けだったのだとか。
大人しく見ていたら、何やら場内で大胆に写真を撮りだす人がいたのでびっくりしたんですが、条件付きで撮影OKでした。遠慮気味に虫六もスマホのシャッター切りました。

トーマス・ルフは、1958年ドイツ生まれで、「デュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻に学んだ「ベッヒャー派」として、1990年代以降、現代の写真表現をリードしてきた存在」(MOMATホームページより)だそうです。ん?ベッヒャー夫妻って知ってるぞ、その昔、『給水塔』って静謐な風景がしぶい写真集を買ったことがある。
思い出してネットで検索してみたら、ヒラ夫人は昨年10月10日に81才で、ベルント氏はもっと以前に逝去されたことを知りました。彼らのお弟子さん達が現代の写真界をリードする存在になっていたんですね。
 
ベッヒャー夫妻は、ドイツの溶鉱炉や給水塔など、近代産業によって作られた歴史的建造物、今でいうなら近代産業遺産を、無名の(アノニマスな)彫刻として、曇天というほぼ同じ光の下で、同じ機材を使い、正面から撮影することで、カタログ的に収集、展示することを行った。それらは同じ機能と形を持つ建造物のバリエーションであり、人工物の形態学だといえる。彼らはその手法を類型学(タイポロジー)と名付けた。
(写真をアートへ導いた大きな流れ「ベッヒャーとその教え子」三木学)

そして、確かにポートレート写真につづくシリーズ「l.m.v.d.r.」は、ドイツの有名な建築家ルードヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエが作った近代建築をカタログ風に撮影したという、師匠の作品を彷彿させるものでした…が、そのアプローチは、すでに作品化しているミース建物の「写真」を分析・研究して、そのイメージに近づけて自ら撮影したり、時にはデジタル処理までしてその巨匠建築家の視覚的イメージを探求するという、こだわりのあるものだったようです。

そのあとの「andere Porträts(アザー・ポートレート)」ってシリーズでは、ちょっと不思議な写真が並びます。
最初にみた友人達の写真を素材に、ドイツの警察が犯人捜査のために使っていたモンタージュ写真合成機をつかって作った、実際には存在しない人物の写真。
うーん、コンセプチャルだなー、好みだぞ。

さらに、この向かいの壁にあった作品のシリーズ「Zeitungsfotos(ニュースペーパーー・フォト)」では、ギョッとしました。
新聞や雑誌に掲載された写真を切り抜いて、額に入れて展示するという…。(ルフはこういう写真を2500枚もアーカイブしていたらしい)もう、写真作品というより、真っ向から現代アート!!これは、こちらが期待していた器から溢れだしているぞ。
職業柄、写真を扱う時はそれが誰がいつ撮ったものかが気になるし、とりあえず著作権とか二次使用とか無視できないつうか、新聞社に使用許可取って使用料払って…という発想しかできない体質になっていたよ…と、スクエアな我が脳みそを自覚( ̄◆ ̄;)。正直、これは禁じ手というか死角を突かれたようなショックを受けました。(あまりにも狼狽して、写真を撮り損ねました)

で、次はこれですよ。「jpeg(ジェイペグ)」のシリーズ。
我々が毎日みているネットその他に溢れているデジタル画像は、いちばん標準的な画像圧縮フォーマットであるjpegで処理されているものが多いわけですが、その圧縮をかけ過ぎるとブロックノイズが起こってしまうという、画像つかっている人ならけっこう見慣れたあの荒れた画像をこれまた巨大プリントで現出。あの事件で目にした場面も、あのニュースで流れた歴史的な写真も、我々が見ていたものはこんなガサガサの画像構造をしていたのです、ね。ルフ先生。
…そうか、この作家は一貫して“アノニマスな(無名の)”イメージの構造を追求しているってことなのか。なにかストンと落ちました。

そうなるとルフ先生の発想はとどまるところを知りません。しかも、自らは写真も撮りません。
物理学や数学の数式がつくる線形を3Dプログラムで解析して、まるで抽象画のドローイングのように描き出したり…(この作品、カッコいいです)

新聞社の資料室に眠っている写真を、裏書きの記述や押印と合成して、大きく引き延ばしてみたり…

NASAの探査船が地球に送ってインターネットで公開されている土星や惑星の写真をデジタル処理で着色してみたり…。などなどなど。

インターネットでは、大量の…(展覧会では「もはや計測することすら不可能な量」と表現してました)画像が氾濫していて、それがなにがしかの現実を表象しているのかどうかも釈然としない現代において、私たちがみている写真(画像)ってなんだろう。実態と作られたイメージの境目にあらためて意識の針が振れる展覧会でした。いやはや面白かった。

トーマス・ルフ展をあまりにじっくり見すぎて、奈良良智セレクションの企画展を見る時間がなくなってしまい、駆け足で《Harmless Kitty》をなんとか見つけ出して見た親子でした(汗)


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