2011年5月7日土曜日

相馬へ帰省(2)_津波被害の地域に行きました。5月4日午後

午後、なぜか家人Tと虫六子もいっしょに帰省中の銀子さんの実家に行きました。
先日も寄って行ったのですが、銀子さんが顔を見せて、ご両親もちょっと安心した感じでした。テレビが新しくなっていました。
少し話をして、海岸の方に行ってみたかと聞くと、まだ…と。

福島県も、宮城県や岩手県の沿岸部と同じく壊滅的な津波の被害にあっています。しかし、原発の爆発事故が発生して、マスコミはその日のうちに撤退してしまい、ほとんど報道されずに放置されていました。南相馬市の市長がyoutubeに、報道もされず、放射能を恐れて救援物資も届かない棄民状況を訴えて、やっとその実態が注目されるようになりました。

先日帰省したときにも津波の被害を見ておきたいという衝動はあったものの、まだ緊急車両が多かったし、災害救助の緊張した現場に踏み込むことができず、慌ただしく帰って来たのでした。
被害にあった方々の気持ちを考えると今も県外ナンバーで彷徨くことに抵抗はあったのですが、自分の故郷がどんな被害にあったのか、やはり自分の目で確かめたいと思い、通行止めになっているかもしれないけれど、とりあえず行けるところまで出かけて見ることにしました。

ほんの少し、海岸に近づいただけで、凄惨な風景が目に飛び込んできました。
もう1ヶ月半経っているので、これでも瓦礫はだいぶ撤収されているのかと思います。何より、道が整備されていました。自衛隊がまず道の瓦礫を片付けたそうです。

松川浦漁協の建物。

漁協前の「丹下左膳之碑」。この石ばかりはしゃんと建っていました。

磯部方向はまだ通行禁止。

漁船が陸に打ち上げられてごろごろしています。

民宿をしていた銀子さんのおばあちゃんの家にも行ってみました。
どこからか、梅津和時の生活向上委員会大管弦楽団のレコードが流れ着いていました。

ビールケースの下に花が咲いていました。

原釜魚協のあたり。
戦争でもあったのか…と思う荒景。
みんな言葉が出ませんでした。

建物らしいものが消えて、基礎の土台だけになっている区画。

毛糸玉のようにくしゃくしゃに丸められた鉄骨。

海は…不思議なほど穏やかで青い。
折り紙のようなタンク。

水産加工の工場。

このあたりは、

住宅地が続いていたところ。
住んでいた人たちはどうなったのだろう。

一旦6号線バイパスに戻って、磯部地区の方に行ってみた。
このあたりはまだ一部立ち入り禁止のようですが…。
水田地帯と思われる一帯はまだ瓦礫で覆われていました。

津波のあと、冠水が引かず、遺体を流さないように昼夜ポンプで水を汲み上げていた地域だそうです。やっと水が引いて砂漠のように地割れしています。ずいぶん奥の方まで冠水したのです。

まだ水が引いていないところもあります。
この先の磯部の住宅地区には入っていけませんでした。
みんな、ため息ばかりついて帰ってきました。

岩手・宮城は復興の兆しが見えてきたと報道されるようになり、テレビの番組も通常モードに戻って、ちょっと落ち着いてきたと思われがちですが、福島県は原発の影響でいまだ避難して戻れる見通しの立たない町村では、津波の片付けや遺体捜査も手つかずの状況。30キロの外側の地域もしばらく重機も救援物質も届かなかったので、復旧も大幅に遅れています。
地元の人たちでなんとか復旧しようとしても、多くの住民が逃げてしまっているので、人出がなくて仕事にならないらしい。ここまで片付いたのは自衛隊のおかげだと。
原発事故がまだ進行中でどうなるか分からない、人が戻せないという状況で、県も市町村も復興策が打ち出せないという苦しい状況の福島県。
大震災の記憶が、まだ風化されてはたまらないと思います。

住民の感情を…とも思いますが、被害の現状を多くの人に自分の目で見てもらいたいとも思いました。


2 件のコメント:

  1. 色々連れて行ってくれてどーもね。お土産も!
    両親も虫六一家が来てくれて喜んでました。
    近い内、またすぐ帰って見るつもりデス。
    もう少し、家も片付けたいし。

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  2. >銀子さん

    なんだかあの日は眠れませんでしたよ。
    震災からだいぶたっているのに、まだ悪夢をみているようです。
    でも、ご両親は銀子さんの顔を見て、随分安心したことでしょう。
    ところで、「震災復興酒・日高見」は飲みましたか?

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