2020年7月19日日曜日

壱太郎さんのART歌舞伎は、水平線の向こうを見せてくれたのかも。

中村壱太郎さんが総合演出をした、ART歌舞伎を繰り返しみて、久しぶりでブログ書きます。(汗)


ART歌舞伎は、コロナ禍中での日本のエンタメ系配信では群を抜いたクオリティの高さだと思いました。
(コロナ禍での配信でもう1つ素晴らしいと思ったのは、向井山朋子さんの「A Live」のシリーズですが、これは別の機会に)
で、
壱太郎さん(以下、壱さん)、ご自身のYouTobeチャンネルも始めたし、幸四郎さんの図夢歌舞伎にも付き合っていたし、じっとしていられなかったのでしょうね。
ライブ配信のアフタートークでプロデュサーの新羅慎二さんのコメントを受けて、壱さんが「何かやりたいとは思っていても、松竹さんから3密の関係で衣装やかつらなんかを借りるコトができなくて、新羅さんのお友だちのクリエーターに繋がっていった」というようなことをおしゃっていました。

そうなんだ、松竹が動かなかった(動けなかった)ことが、壱さんを歌舞伎の外側に放り出し、演出家としての才能を開花させることになったのか、そう思うと、コロナがくれた恩恵なのかもしれないです。新しいものが生み出される時というのは、そういう障害を乗り越えた先だったりするんだね。いえ、コロナはちっとも有り難くはないですが…

演奏家には、壱さんが選んで声をかけたそう。いつもの歌舞伎の舞台に立たないけど、伝統芸能に軸足を置きながら他ジャンルの音楽とも共演する機会の多い演奏家のみなさん。この劇伴チームの選定だけで壱さんのセンスの良さがわかる。音楽だけで公演をして欲しいくらいとても魅力的な演奏でした。推峰さん(お笛)は存じ上げていたけれど、山部泰嗣さん(太鼓)、中井智弥さんは初めて。すごいコラボでした。(中井さんのCDポチリました。)特に津軽三味線の浅野祥さんの抜擢は(仙台という贔屓目なしに)良かった。

踊り手と楽器を一対で構成した第一部「四神降臨」がカッコ良く終わって、場転、二部の「五穀豊穣」では三味線を脇に立てた浅野さんが舞台の中央で、民謡『豊年こいこい節』を独唱。ほわっと土の香りがしてくるようでした。滋味があり、こころに染みてくる歌声でした。お爺ちゃんが好きな歌だったのかな?
そして浅野さんと太鼓の山部泰嗣さんの「神狗」、伝統芸の超絶技巧を魅せていただきました。浅野さんの津軽三味線はキレの良さもあるけど繊細さが魅力なんですよね。

この演奏のあとで、第三部「祈望祭事」。
これが藁人間が三番叟を踊るという趣向。太鼓が「月」に見立てられておりました。
北国ではお馴染みの来訪神のイメージでしょうか、伴奏は津軽三味線だし。
でも、私が個人的に彷彿したのは、「荒神さん(こうずんさん)」。
いがらしみきお先生の強烈な作画が蘇ってしまった。…あのこうずんさんが、可愛く三番叟を踊っているってだけでストライク。

ちなみにいがらし先生の描かれた「こうずんさん」はこちらです。

Byせんだいメディアテーク「物語りのかたち」展より。

お芝居の「花のこゝろ」はもちろん良かった。凄いもの見た感。
右近さんは当世風の2枚目ですね。おばちゃんは、若い時はお姫様やっていたのにずいぶん芯が太くなったものだよねぇ…なんて思ってしまいましたが。
友吉鶴心さんの琵琶語りが、すんなり分かりやすく物語を伝えてくれました。
コロシ役のお二人、花柳源九郎さん、藤間涼太朗さんの存在感も大きい。舞踊家は自在なんだね。式神みたいでした。早乙女の七夕の吹き流しみたいな衣装も舞台に映えていました。

ART歌舞伎は、歌舞伎の寸法や枠組みからはみ出した、歌舞伎のエレメントが変異してスパークした作品という印象。
もちろん、衣装や化粧が全然違ってもいたし、映像(カメラ7台、リハなしの一発撮りらしいです。天才か!)や照明の効果も絶大だった。

若いチームだからこその、異種混交の型破り感と、それを成し遂げて新しい地平を見た青年達の高揚感が伝わって来て、見ているこちらまで幸せな気持ちになりました。とにかく楽しそうだった。あれは関わった人全員の肥やしになった作品だったのだろうと思います。

たくさんの人に見て欲しいです。配信は明日(19日)までなんですけど。(;´▽`A`` 

2019年5月22日水曜日

吉備中央町に重森三玲のオリジンを訪ねる(後編)_こんぴら歌舞伎2019・帰り道

さて、
そういえば、その日の朝は出発が早くてホテルの朝食に間に合わず、なんだかんだで朝ご飯抜きだったのです。この先も何が起きるか分からないし、ここはがっつり食べておいた方がよさそうだと思い、ヒレカツ定食をオーダー!

このお肉、とーっても柔らかくて、衣もサクサクっ。(←ケンジ調 by きのう何食べた?)
地元産の野菜たっぷりのサラダバーで、このところの野菜不足も補っちゃいました。

うぉーし、午後の部行くぞ〜!と、先ほどのタクシー会社(賀陽交通)さんに再びお願いしますとお電話すると、
「はいはい、じゃあ20分くらいお待ちください」と! ∑(゚∇゚|||)
「えぇえ、20分ですか?」
「はい、いまから出ても遠いからそれくらいかかりますから…」と。
…ひい、しくじった、想定外のロスタイム。そーなのか、そーなのか、早めに時間を決めて予約しておけば良かった…と思うも、後悔先に立たず。
「道の駅」だったので、産直の野菜とかなんとか見ながら時間を潰すけれど、コレ、どんなに新鮮でも今買うべきものではないわけだよ。

やっとタクシーが迎えに来てくれたと思ったら、午前中のお若い方ではなく、さきほど電話にでてくれた(と思われる)ベテランの女性の方でした。
これから向かう小倉邸もよくご存じのようで、いろいろお話も弾んで、なんだか不安感が解消。
「小倉さんのお宅から、次の西谷さんのお宅は歩いて行けるので、15時に西谷さんの下で待ってますから。30分あればきびプラザまで間に合いますので…」と段取ってくださり、帰り足を確保して、いざ、小倉邸へ。
「こんにちはー」と母屋に声を掛けると、迎えてくださったのは身支度もきちんとした上品な佇まいの老齢のご婦人で、役所から予約の連絡が行っていたらしく、「はいはい、どうぞ中へ」とお庭に誘ってくださいました。

そして、なんと縁側から床の間に上がるようにうながされ、お邪魔すると、「ゆっくりして行ってね」と、抹茶を点てておもてなしくださったのでした!w(゚o゚)w
予想外のことになんだかとっても感激…。
午前中のマキマキ・押せ押せの気分をすっかり忘れて、図々しくも小倉さんのお家でまったりしてしまいました。

床の間の掛け軸は、重森三玲直筆の「曲嶌庭」の揮毫。

「曲嶌庭」は、昭和26年、三玲の父・元治郎と親交のあった施主のご当主・小倉常太郎さんと息子の豊さんが、吉川周辺の花崗岩や北白川の砂を準備して三玲に作庭を依頼し、図面無しで2日で造り上げた庭。三玲55才の作品だそうです。

今は常太郎さんのお孫さんの末子さんがおひとりでお住まいで(?)この庭を守られているそう。とても奇麗に管理されていました。借景は、近くに山が迫っていて新緑の柔らかい色が爽やか。

「戦争が終わって間もない頃だったので、何もなかったから、母にしてみれば、庭を造るくらいなら台所を直してくれって思いだったらしいけれど、ーそれはそうだわよねー、でも、父(豊さん)は三玲先生に庭を造らせたいって、近くの石やなんかをいろいろ集めて依頼したそうです。」
「でも、この石がね、素朴でなんとも言えない味わいがあるって言われます。」

お茶をいただきながら、小倉さんのお話をいろいろ聞くことが出来て、いやー、このお話を伺うために此所まで来たんだな、私…と思いました。

「曲嶌庭」は、3つの石組みと苔、白砂で構成された石庭。蓬莱神仙の世界観を表現しつつも、3つの石組みは処女作の茶室で見たのと同じく、それぞれ「真(楷書)・行(行書)・草(草書)」を表しており、それはすなわち人生の三段階のことなのだそうです。

一番奥の、切り立った岩を中心に8つの石で構成されているのが「真(=人生の初期)」の石組。

向かって左の、ごろごろした7つの石で構成されているのが「行(=人生の中年期)」の石組。

そして右の、角の取れた低い石など5つで構成されているのが「草(=人生終期)」の石組。

戦争が終わって、改めて表現への意欲に満ちた時期でもあったでしょうし、また「天籟庵」を拝見したあとでは初心に還る思いもあったのかなとも感じました。華道家の中川氏も参加した「白東社展」をはじめるのは昭和27年、その1年前に、故郷の地でどんな思いを込めてこのお庭を作られたのでしょうか。

もうすぐ90才になるという小倉さん曰く

「いまは山が緑色で爽やかな景色ですけどね、これが夜になると山が真っ暗で見えなくなってね、家の灯りで石がライトアップされたように光を帯びるんですよ。それがね、石が語りかけて来るようで、存在感が極まるんですよ。私は草の石組とね…、私はあんなに丸くなれたかしらってね。近頃は100才の人が書いた本ばっかり読んでいるんですよ。ふふふ」

「それから冬が一層きれいですよ。辺り一面雪で覆われて、そこに石が剥き出しになって、すこし雪を被ってたりしてね、それもとても風情がありますよ…」

うわー、真夜中にも雪深い冬にもたぶんお邪魔出来るってことはないと思いますが、そのお話だけで、いっぱい想像が膨らみます。(´;ω;`)
それにしても、そんな風景を独り占めできるお家に暮らしているとは、なんて贅沢なことでしょう。言われてみれば、我が家はマンションなので庭がない、庭のあるお家に暮らしたいものですねー。

とはとはいえ、小倉さんがお元気だからこそ、このお庭は存在しているのですよね。
今日お庭をお訪ねしたことも、末子さんとお会いできたことも、一期一会の奇跡のようなものだったのかも知れないと思いました。

さて、そろそろ西谷家へ行かねばということを思い出して、お暇すると、なんと小倉さんが自ら道案内をしてくださり、畦道をふたりで散歩。っていうか、サンダル履きでスイスイ歩く健脚に二度びっくり。

小倉家から10分ばかり歩いた見晴らしのいい高台に、西谷家はありました。2色の椿、その向こうに山桜…。吉備中央町はまだ春でした。

この個人邸のために三玲が庭を造ったのは昭和4年。「旭楽庭」と名付けられています。
三玲33才の作品で、自宅の庭の次に古い作品だそう。ここでもご主人が「庭を見にきたんでしょ?」と迎えてくれました。(こちらも役所経由で予約が必要です)

右方の立てられた巨石を中心にした石組みは滝石で蓬莱山も表現しているそう。そこから連なる低めの石組みは山の連なりだそうです。向こうのリアル山並みと呼び合っているみたい。
ご主人が、「三玲さんは借景を取り入れない庭が多いらしいけれど、この庭は別の場所に移されたらダメだね」とおっしゃっていました。また格別に見晴らしがいいんだ、このお宅は。

白砂の海には、蓬莱に向かう舟石(左)と、灯台を表す石(右)が…。

母屋を取り囲むようにL字型にぐるりと庭があります。植栽が育って、たぶん当初よりそうとう大きくなっているのでしょう。

また、生活空間にあるので、納屋の増築の際に石をずらしたりして、三玲が作庭したころとは、少々変えてしまったところもあるそうです。上の写真は、ちょっと崩れちゃった鶴亀石…だそうです。
「枯山水じゃないから、樹を枯らすわけに行かないからね。でも、100年近く持ったんだから立派なもんだよ。」と、西谷さんは笑っていました。息子さんは、この庭にはあまり興味がないんだとか…。あらら、もったいない。

気持ちの良い山並みなど見ながら、ご主人と世間話(近くに若い彫刻家さんが住み着いて制作しているので、ときどき珍しい木材なんかを持って行ってやるんだとか…)をしていると、下にタクシーが到着する音が聞こえて、ちょうどお時間となりました。

タクシーできびプラザに運んでもらって予定通りのバスに乗車。無事に帰路につきました。

この日のタクシー代は締めて15,880円(100円おまけ)。
怒濤の1日でしたが、吉備中央町は出会った人がみんな親切でしたし、また重森三玲の大事な作品を見ることが出来、さらに旅のスリルも味わえて、はるばるやってきた感がありました。振り返ってみると、どのお庭でも料金を取られていないのですよ。これもすごい。なんだか豊かなものを恵んでいただいたような…。そう考えると、この交通費はけっして高くなかったなと思った次第です。

親切にしていただいたみなさんに心から感謝でございます。ありがとうございました。


【おまけ】 岡山駅前の桃太郎。家来が増えておりました。

2019年5月16日木曜日

吉備中央町に重森三玲のオリジンを訪ねる(前編)_こんぴら歌舞伎2019・帰り道

琴平町・金丸座の「こんぴら歌舞伎」への遠征(4月19日〜21日)の帰り道、岡山に途中下車して1泊し、吉備中央町に寄り道しました。吉備中央町…奥州仙台住まいの虫六には見当もつかない土地で、そこはいったいどこでしょう?って感じなんでございました。

GoogleMap
なぜにこの町に向かうことになったのか?と申しますと、
それは、昭和を代表する作庭家で、戦後の前衛芸術運動にも多大な影響を与えた重森三玲の生誕の地であり、処女作をはじめ所縁の作品が多く残っている土地だからであります。
重森三玲(1896年〜1975年)の作庭したお庭を巡ることをささやかなライフワークとしている虫六、機会をとらえてあちらこちらをお訪ねしております。

 ○木曽福島・興禅寺
 ○東福寺界隈
 ○重森三玲庭園美術館
 ○松尾大社
 ○大徳寺瑞峯院
 ○岸和田城「八陣の庭」

が、さすがにここまで行くのはハードルが高いと思っていたのです。
でも琴平の帰り足に1日休みがあったのと、一緒に行くはずの相棒が来れなくなり、ひとり旅となったので、ん!?今なのか?と足を伸ばしてみることにしました。

しかしあまりにも土地勘がないので、1日コースで行って来れるのか少々不安もあり、役場の方にしつこく問い合わせなどして交通手段などを検討…。
こんなコースを計画してみました。

往路)岡山 6:37→(JR伯備線)→備中高梁 7:29着・7:40発→(備北バス)→吉川(終点)8:42着 9:00開館の重森三玲記念館に入館 
 その先は現地で決める。
(ただし、町内ではタクシー以外の移動手段は無いとのこと…(゚∇゚|||)えっ)

復路)きびプラザ15:30→(中鉄バス)→岡山駅16:30着→ホテルに荷物を取りに…岡山17:53発のぞみ→21:13東京駅着/31:36はやぶさ乗り換え→仙台着23:07

町内の重森物件は7ヶ所。お昼を含めて所要時間は6時間半を確保しました。
とにかく、乗りものに乗り遅れないこと、特に町内の中心施設・きびプラザ発のバスに乗り損ねると仙台に帰れないという事態となるので要注意。なんだか緊張するなぁ。

早朝にホテルを出て岡山駅にやってくると、サンライズ瀬戸・出雲が入線してきて、向こうのホームで切り離しを行っていました。一昨日の朝はあれに乗っていたんだなと思うと、なんだか不思議な感じ。

伯備線の、通勤通学利用の人たちにまじって普通列車に揺られ、備中高梁駅まで来て下車、ここからは路線バスに連絡。終点まで乗りっぱなしなので、停車場を間違えてはいけないという緊張感も無く、ただ物珍しい車窓の景色をぼんやり眺めつつ、マイナスイオン満喫。仕事も忘れて解脱状態。どんどん山奥に入っていく感じ、ひとり旅楽しいなー。

2時間ほど電車やバスに揺られて、はい到着しました。吉川公民館の敷地内にある重森三玲記念館。今回の重森庭園探訪のスタート地点です。

おやさっそく枯山水があると思って見てみると、三玲のお孫さんの重森千青(しげもりちさを)さんが記念館の創設にあたり記念に作庭した庭でした。石組みは「三玲」の字を象ったそうです。そう言われてみれば、見えなくもないですね。
庭の前で写真など撮っていたら、ちょうど開館準備をしていた職員の方が声を掛けてくださったので、「仙台から来たんですけど、町内の重森庭園を見て回りたいのですが…」というと、ひぇ〜と1拍驚いて、親切に(本当に!)相談に乗ってくださり、公民館の館長さんも一緒になって、効率的なコース取りを決めてくれました。「外食するところもないから、お昼は道の駅「かよう」で…」という超重要情報も教えてくれました。

まずは、記念館の常設展で三玲が残した書画や茶器、手紙などの資料を眺めつつ、公民館の一角にはパネル展示室があったので、こちらで本日の予習。町内の重森物件のプロフィールを頭に入れました。映像もあって分かりやすかったです。

記念館の隣地(吉川八幡宮)には、三玲の処女作である茶室「天籟庵(てんらいあん)」が移築されています。(1つ前の写真の向こう側に見えている建物。撮影禁止なので、吉備中央町のリンクをご覧ください)

重森家はこのあたりの素封家で、三玲は祖父や父の影響で小さい時から絵や書を好み、生け花や茶の湯を学んでいたそうです。それで、18才の時にみずから茶室を設計し、それを実家の敷地内に父・元治郎が施工して建てたのが「天籟庵」です。
早熟にして、半端ない教養…。教養って余裕から生まれてくるものなんだよね、いまのIT素封家はお金持ちだけど教養はなさそうだなぁ。

1つの部屋に「真・行・草」を表す床の間がそれぞれ3つもあるという珍しい設計は、青年期からして既成概念にとらわれない「はみ出す才能」を感じさせました。18才の三玲少年はすでに茶道の世界観を自分のものにしていたのでしょうか。曲面が特徴の船底天井に、サルスベリという変わった材を用いた床柱もユニークですが、しかし、なんといっても変わっているのはオール・モルタルのお庭。これは茶室が昭和44年に宮社の境内に移築されるときに、三玲自身が新たに作庭したもので、過疎化が進む土地の状況に配慮して町民の負担にならずにメンテンナンスフリーで維持できるようにと、こういう造りになったそう。1本の草も木もない庭には正直度肝を抜かれましたが、吉川八幡宮が海の神様を祀った社であることに因んで、波の模様が大胆にデザインされ、最高級の鞍馬石や鎌倉時代の手水鉢を配するなど、伝統とモダンが対峙していて斬新でした。
…いえ、何気なく書きましたが、庭を維持するには経費も人の手もかかるのです。このような発想自体が重森三玲のすごいところだと思います。

年に1度の地域のイベントの日には、この茶室も市民に開放されて、みんながお茶を楽しむのだそうです。

処女作の茶室もはみ出していたけれど、50年たって造ったこの庭も相当尖っているなぁーと、旅の初っぱなから三玲の個性に打たれました。

ちなみに、「天籟庵」だけでなく記念館や公民館のあるこの辺り一帯は、ぜーんぶ吉川八幡宮の敷地内だったそうです。この宮社は京都の石清水八幡宮の別宮として永長元年(1096年)に創建されたという由緒も古く、そうとう大きな神社だったようです。三玲は、地元の人たちも気づくことがなかったこの神社の文化財的価値を見いだして、「特別保護建造物」指定に取り組んだそうで、それを経て、現在は本殿が国の重要文化財に指定されているのです。

神社を見ている間にタクシーを呼んでいただき、到着した車に乗り込んで、次の目的地に…。
参考までに、公民館の方に「歩いて行ったりはできますか?」と聞いてみたら、「絶対に無理です!」と即答が返ってきました。「町内は基本的に山道なのでアップダウンが激しくて大変ですよ、自転車も無理、18才くらいなら止めませんけど…」って。

次に訪れたのはいま拝見した「天籟庵」が元々あった場所、つまり三玲の生家跡です。
見学者用の案内板もあり、自由に入ってみることができます。建物の基礎部分も残っていて、建築のことは詳しいこと知りませんが、相当大きな家であったことはわかりました。
松(?)の樹形が大変なことになってました。

お若いタクシーの運転手さんがまだ成り立てとかで、「あの場所だと思うんだけど…」とか言いながら入口を見つけられずに遠回りしてくれたのには、胃が縮む思いでしたが。

茶室は移築されたけど、茶庭はその場所に残っていて、その痕跡をみることができます。大正14年に、三玲が京都の大徳寺大仙院をリスペクトして初めて作庭した枯山水。枯滝石組や立石などが当時のまま残っています。
遺跡の様な、いまは手入れする人のいない庭の跡を眺めながら、若々しい三玲の気概など感じながらも、まだまだ先がある…とりあえず次の目的地へ。

そこから、ぐるーっと町の反対側へ走ってもらって着いたのが、吉備中央町賀陽庁舎。京都友琳会館の庭園(昭和44年作庭)を平成14年にここへ移築した「友琳の庭」。

「友」は友禅染の完成者・宮崎友禅斎から、「琳」は尾形光琳から、京都を代表するデザイナーへのリスペクト。ひゅるんと伸びた白い形状は熨斗を表現しているそうで、池泉鑑賞式の庭園です。

紀州和歌山の海の石を使っていて、移築の際に三玲の弟子さんが工夫して、水面にいつもぴらぴらとさざ波が立つようなしくみに改良したそうです。ぼこぼこわき上がる水が温泉のようです。
上の方から全貌を眺め下ろしたかったけれど、庁舎を彷徨く勇気が出ず、また待たせたタクシー(のメーター)も心配なので、やや後ろ髪を引かれつつ庭を後にしました。

タクシーの運転手さんに、「レンタカー借りれば良かったですかね?」ってイジイジ聞いてみたら、「うーん、でもレンタカーって岡山だと空港で借りないとないんじゃないかな…」という答えが返ってきて、そうか、なんだかんだで最良の方法を踏んでいるのかオレと思ってしまいました。

そして次に辿りついたのは、大村寺にある茶室「功徳庵」。ここはうっかり予約していかなかった(というか、役場でも聞かれなかったので一般公開してなかったのかもしれません)ので、茶室の中には入れませんでしたが、ぐるりとお庭を拝見。

功徳庵は三玲64歳の作品。昭和38年に岡山市内の個人宅(立岡皓男氏宅?)のために築造し、立岡氏から寄贈を受け大村寺へ移築(平成11年6月)されました。北山杉、長岡竹、鞍馬石と材料を吟味して建築された茶室は相対美が美しく、三玲の最高傑作とも言われているそう。

低く作られた垣根越しに、推定樹齢350年のクロマツ(錦松)を臨むことができます。
瀟洒な建物は、もともとあったお屋敷とはどんな感じでおかれていたのかなとか、その庭からはどんな借景を楽しんだのかな…とか、いろいろ想像。

この石は…なんだろな、石臼の石かな。

うーん、この石も何かの廃材かもしれないな…。
とか、勉強不足をやや反省しつつ、大村寺を後にして、さきほど教えていただいた道の駅「かよう」まで連れていっていただき、お昼タイム。

で、ここでいったんタクシーを精算して、手放すことに。

ここまでのタクシー代、10,100円!…100円はおまけしてくれました。
 (;´д`)
ひい、正直いってお安くない〜、吉備中央町広い〜。
っていうか、財布に万札入っていて良かった。

さて、このあと虫六のひとり旅はいったいどうなるのでしょうか…(つづく)

2019年1月13日日曜日

2017年の観劇ベストテン(覚書)←いまごろ

寒中お見舞い申し上げます。
今年は、喪中につき年賀のご挨拶を欠礼させていただきました。

そして、年末に大掃除の傍ら整理しようとおもっていた去年の観劇関係の資料、手付かずで年を越してしまいました。あー、こーしてみると、本当にいかにブログをサボっていたかが知れちゃうなーと思いながら、本棚に仕舞い切れない筋書きの山をみる。正月から反省反省。(生写真の整理は未着手のまま)



そんなわけで、松も開けてしまったというのに
いまごろ(?!)な、2018年ベストテンなど…(以下観劇順)

『仮名手本忠臣蔵 七段目』(白鷗、仁左衛門、玉三郎)2月歌舞伎座
『神田祭』(仁左・玉)3月歌舞伎座
『絵本合法衢』(仁左衛門)4月歌舞伎座
『切られの与三』(七之助、梅枝)5月 コクーン歌舞伎
『盟三五大切』(幸四郎・七之助・獅堂)8月歌舞伎座
『助六』(仁左衛門・七之助)10月歌舞伎座
『実盛物語』(勘九郎)11月平成中村座
『隅田川続俤』法界坊(猿之助・右近)11月歌舞伎座
『壇ノ浦兜軍記(阿古屋)』(玉三郎)12月歌舞伎座
『二人藤娘』(梅枝・児太郎)12月歌舞伎座


<歌舞伎外>
「すしやの段」(駒之助)2月KAAT
まっちゃん祭り(神田松之丞ほか)11月読売ホール
文楽『勘助住家の段』ほか 5月国立小劇場

…ということにしておこう。

昨年は、ほとんど東京通いで遠征はなかったけれど、仁左衛門と玉三郎が顔を揃える舞台が色々堪能できて眼福でした。いつまでも元気で素晴らしい舞台をみせてください。
高麗屋の襲名は2月だけでしたが、歌舞伎座で拝見。幸四郎には色々窮屈でなくやって欲しいです。
また、七之助の躍進が本当に際立って今年はさらに大きくなるんだろうなぁという感じ。さらに、梅枝、児太郎の成長も楽しみ。特に児太郎は大注目ですね。っていうかずっと高感度が右肩上がりです。ベストテンには入いり切れませんでしたが、壱太郎も注目してます。
…今年は、三谷幸喜さんも新作歌舞伎(6月)にやるというし、ナウシカ歌舞伎(12月)もあるし、こんぴら歌舞伎(4月)は中村屋ですし…うぅ、破産するぅ。

話芸ものでは、柳家喬太郎(落語)や神田松之丞(講談)の高座を聞く機会が持てて嬉しかった。なかなか予定を合わせられませんが、寄席芸も聞く機会を増やしていけるといいなー。
…とはいえ、田舎住まいはやっぱり機会が少ないので、上京のチャンスをつかまなければならないのはハンディが大きいとますます実感するのでありました。
歌舞伎はまだ1ト月やってくださいますが、松之丞の連続読みなど、なかなかというか、定年退職でもしなければ長期滞在して聞くチャンスないんでないのかな…。
そういう意味では、ラジオでいいから連続読みやって欲しいです。

仙台でみた舞台では、文楽地方公演(『義経千本桜』「椎の木の段」「すしやの段」、『義経千本桜』(道行初音旅)、『新版歌祭文』)の若手の義太夫さんたちのがんばりが好感持てました。

そんなこんなで、歌舞伎の神様、今年もどうかよろしくお願いします。


【おまけ】←というか懺悔
*去年タイトルだけ付けて書かなかった日記

1)歌舞伎座11月公演_猿之助の「法界坊」
2)神田松之丞「まっちゃん祭り」
3)平成中村座11月_あるいは「長三郎劇場」を桜席で


2018年11月7日水曜日

10月に読んだ本

10月の読書メーター
読んだ本の数:4
読んだページ数:919
ナイス数:35

きのう何食べた?(14) (モーニング KC)きのう何食べた?(14) (モーニング KC)感想
途中3巻ほど抜けてしまったのですが、違和感なく1話完結でも読めるところは秀逸。とりあえず、明日は久しぶりで角煮にしようと思って、今晩のうちにバラ肉下ゆでしました。(笑)←影響されやすいので。
読了日:10月29日 著者:よしなが ふみ

貴様いつまで女子でいるつもりだ問題 (幻冬舎文庫)貴様いつまで女子でいるつもりだ問題 (幻冬舎文庫)感想
Kindle版。先だって読んだお父さんのことを書いたエッセイやラジオの人生相談の切れ味の良さで、ジェーン・スーさんは最近とても気になる人物です。女子目線ではあるけど、ちょっと立ち位置がずれている。めんどくさいこともあえて丁寧に考えてみる…でも難しい言い方をする分けじゃない…は好ましい。ただ10年くらい若い方なのと、東京生まれ東京育ちの方のなので、いろいろと感性的な齟齬はありました。てなわけで、とりあえず娘にお薦めしておいたがどうだろう。
読了日:10月22日 著者:ジェーン・スー

この芸人に会いたい: 観て、撮って、書いた。旬の芸人・落語家たちこの芸人に会いたい: 観て、撮って、書いた。旬の芸人・落語家たち感想
これも本屋で手にしてつい買ってしまった1冊。「スペシャリスト」に恩田えりさん、太田そのさん、稲葉千秋さんの三人のお囃子さんが載っていたから。これは買わずにおけないでしょ。それにしても写真の力はすごいなぁ…といっちゃいけないね…ファインダーを覗く蓮二さんの目が深いってことなんだもん。写真集かと思ったら、それぞれにエッセイがついていた。これも愛情があっていい。寄席のすみずみまで空気を感じさせる。落語さんはもとより、ダメジャン小出さんとか、ぺぺ桜井さんとか、ロケット団とか…いいですよ。保存版ですよ。
読了日:10月21日 著者:橘 蓮二

神田松之丞 講談入門神田松之丞 講談入門感想
ネットではピンとこなかったけど本屋で見たら思わずレジに並んでました。レイアウトが見やすい。確かに松之丞さんのいうとおり講談初心者の「この話なんての?」に答えてくれる引ける本ってみたこと無かった。歌舞伎や落語はあるのにネ。そういう意味で扉を開けてもらった感じ。そしてその扉の向こうには随分深く面白い世界が広がっている気配。講談ってなんでこんなに長いの?1寄席では1話ずつだけど連続読みで聞きたくなってしまうよ。独演会行きたくなるわけが分かった。「畔倉重四郎」はぜひ機会を捕まえたいな。故陽司先生の名前も(;ω;)
読了日:10月12日 著者:神田松之丞

読書メーター

2018年11月3日土曜日

一世一代?仁左衛門の『助六』_歌舞伎座十月大歌舞伎・夜の部

歌舞伎座百三十年「芸術祭十月大歌舞伎」は、十八世中村勘三郎七回忌追善でした。
夜の部に仁左衛門さんが『助六』を掛けるというので、虫六も黒い羽に磨きをかけて、花道脇の良席をゲット!久しぶりの贅沢芝居見物となりました。
(すみません、ブログをサボっているだけで、そこそこの席で春場も夏場も芝居は見てました…と白状だけしておきます。)

本当は、昼の部も幕見で観ようかと目論んではいたのですが、今月は幕見もヒートアップしているご様子で、さらに日曜日だったので一番列車(もちろん新幹線です)に乗る体力はないなーという自覚があったのと、そこで無理をして夜の部に居眠りしてはいかん!とさまざま考えて、昼過ぎに木挽町に到着。古本屋さんで油を売って、N姐さんと待ち合わせ時間に合流。

勘三郎さんが亡くなって丸6年…もう7回忌なんだって。なんだか信じられないなぁ。
遺影の前に人だかりがあり、正面から上手く撮れませなんだが、…合掌。

 で、どおして中村屋の追善に『助六』なのか?なんですが、これは仁左衛門さんが重ねてインタビューに答えていらっしゃいますが、十五代目仁左衛門の襲名披露狂言として『助六曲輪初花桜』をお掛けになったときに、その役を教えてくれたのが十七世の勘三郎さんで、それをいずれ十八代目に教える約束をしていたけど、それを果たす前に十八代目が亡くなってしまったのですね。その果たせなかった思いをつないでいくため、今回の追善で勘九郎さん、七之助さんと同じ舞台に立って助六を演じることにしたそうです。
白酒売りで勘九郎さんはこの舞台を身体にいれて、いずれ助六を演じる日がくるのでしょうし、「七之助くんを揚巻役者にしなければならない」という仁左衛門さんの言葉にはしびれます。歌舞伎の将来を見通しての今回の舞台。仁左衛門さん、やる前から「一世一代の助六」とささやかれていました。そして、当代随一の揚巻役者である玉三郎さんが、曽我十郎(白酒売新兵衛)・五郎(花川戸助六)兄弟の母・満江の役でご出演…という。

勘三郎さん、貴方のお子様たちはこれほどに支えられておりますよ…。

そして、福山かつぎには仁左衛門さんの孫の千之助くん!!歌舞伎ファンとしてはその先の舞台にまで夢を馳せるよねー。

ちょっと話題はそれますが、
通称『助六』は、成田屋さんの専売特許みたいな演目ですが、成田屋さんがやるときは花道から登場する時の「出端の唄」を河東節が演奏し、この曲名が「所縁江戸櫻」というので、外題を『助六所縁江戸櫻』というらしいです。しかし、成田屋さん以外でも『助六』は演じられており、高麗屋なら『助六曲輪江戸櫻』、音羽屋なら『助六曲輪菊』、松嶋屋なら『助六曲輪初花櫻』などと外題を変えて、成田屋が河東節を用いる「出端の唄」を長唄や清元、常磐津などに書き替えて上演しているそうです。(Wikipedia『助六』より)

つまり外題は、「出端の唄」の曲名から来ているのですね。
ちなみに、松島屋さんは長唄なんですが、長唄の『助六』ってカッコいいんですよね、曲だけ聞いても。虫六は大好きな曲です。

今回、虫六は 、出端の助六さんが傘を閉じてしゃっと水を切った雨の雫が飛んでくる至近距離にて観劇させていただきました。(今年の運はここに使い切ったかなー)
『助六』にご出演の役者さん達は基本的にみんな花道から登場するので、この席は満足度高いですよね。ふふふ。

七之助の揚巻は華があっていいですね。口跡が良いのでセリフも聞きやすい、ときどき張りすぎて地声になって夜長姫を思い出しちゃったけど、舞台オーラは若手の女形では群を抜いていると感じました。まだ初演なので、これからもっと艶を磨いていって欲しいです。
意休さんに悪態をつく伝法(?)なところもはまっていましたが、母・満江と奥から出てくる様子は一変して恋人を思う乙女でしおらしい。…っていうか、玉様の存在感が半端ないんですよ。顔を隠していらっしゃるのに…。

歌舞伎座閉場の頃、跡継ぎがいない玉三郎さんが仕事量を減らしていることに鑑み、芝居好きの仲間と今後の真女形の後継者問題はどうなるの?真女形がいなくなったら、歌舞伎じゃなくなるんじゃないの?と心配していたけれども、いやはや七之助の成長は頼もしい。そして、それをもうそこまで追ってくる形で、児太郎さん(白玉をしてました)や梅枝さん、壱太郎さんが成長しているのも好ましいです。これも玉さまの教育のおかげなのかも知れないですが…。

成長と言えば、巳之助さんが大きく見えました。朝顔仙平も存在感ありましたけど、前演目の『吉野山』の早見藤太がご馳走感。第三の主人公でした。『NARUTO』も主演でがんばっていたけれど、もっと大きな役いただいてほしいです。

歌六さんの髭の意休はダンディで、仁左衛門助六にがっちり対峙していました。そして、基本的に、歌六さんのやる役は全部好きな事に気がつきました。
取り巻きの若い衆の浴衣が、松嶋屋の銀杏柄で可愛かったな。松嶋屋さんのグッズが少ないので、あの柄で手ぬぐいでも作って欲しいものです。

で、いよいよ助六さんの出ですが、花道間近で拝見していましたら、足の運びがとても慎重なので、高い下駄をはいているし、きめのポーズもいくつもあるしでこんな感じなのかな…とか、それよりも「美しすぎる74才」に驚愕しつつ、思っていたのですが、ふと目の端に下手の花道の付け根で後見の松之助さんがすんごく心配そうに緊張の面持ちで控えていらっしゃるのが目に入り…(えっ?旦那、もしかして調子がよろしくない???)と不安になりました。もう心がざわざわ。
…ところが!一旦、セリフが入ってきたら、もう仁左衛門さんの呼吸に飲まれてしまうのだね。陰影のある美男子が、生意気なモテ男になり、やんちゃな弟になり、母親に頭のあがらないガキになる…いやはやこの方いったいおいくつなんだ。
いつもそうなんですが、仁左衛門さんのお芝居は、息をすることを忘れてしまうのよね。

フォロワーさんが、「仁左衛門さんの意休も見てみたい」と鋭いことをおっしゃっていましたが、そうなんだ!と納得。お父様の十三代目は意休がはまり役だったのですね。ちょうど十三代目の写真集『風姿』を予習がてら見ていて、六代目歌右衛門の揚巻に意休役で出演されている写真を拝見していたのでピピンと来てしまいました。
勘九郎さんが助六で掛ける時には、ぜひ、意休役で付き合っていただきたいです。これは見応えある勝負になるよう。勘九郎さんも助六役が似合いそうですし。

ところで、今年の文化功労賞に仁左衛門さんが選出されました。ヽ(´▽`)/ おめでとうございます!

で、それを伝えるニュースを見て驚いたよ。「いつものように先輩や自分のビデオを見直している最中、十一世團十郎の助六を見ているところで今回の一報を受け」たって。
( ̄◆ ̄;)
えっ、研究していたの?もしかしてまだまだ「攻め」の姿勢じゃないですか?誰ですか「一世一代」なんてデマをとばしてんのは。私は、仁左衛門さんの意休も見たいけど、進化した助六も見てみたいよ。そして、文化勲章もらっちゃってください。

勘九郎さんも奮闘なさっていました。大河ドラマ出演のために身体を絞って小さくなっていましたが、相変わらずの切れの良い踊りは気持ちが良かった。『吉野山』は眼福でした。人でないものの妖気を纏った獣的な動き方が上手いですよね、勘九郎さんは。狐大好き。
こちらでは、玉様は可憐な静御前なのですよ。一部の中で、お姫様役から老け女形まで、この振り幅が凄い。そして、それを楽しんでいるという感じ。なんだかんだで一番余裕があったのは玉三郎さんでした。

もう遺児というのも憚られるほど立派になった中村屋の兄弟。新作に挑戦していくのも良いのですが、今月の芝居のように、古典をしっかりやって引き出しを増やしていって欲しいです。古典の魅力をしっかり今の観客に伝えられるようになってこその、歌舞伎の将来でもあると思いました。

追記。「宮島のだんまり」は、役者をカタログのように見せるという趣向が、歌舞伎臭くてとても面白いと思いました。花魁の六方って初めてみた!