テーマ:「芝居小屋はまちづくりの核となれるか」
期日:平成24年5月13日(日)、14日(月)
会場:でか小屋、 和倉温泉「あえの風」
このデカい倉庫みたいな建物が「でか小屋」。
江戸時代に建てられた芝居小屋とみられるのですが、明治20年頃にこの海岸近くの埋め立て地に移設され、明治26年の歌舞伎興行を最後に北前船の海運倉庫に転用されて、せっかくの舞台や桟敷席などは取り払われ、ムシロ倉庫として使われていました。また、戦時中の道路拡幅で劇場のファサード部分が4メートルほど切り取られた状態とのことです。
そんななか、平成19年3月に発生した能登半島地震で建物が傾きそうになり、地元で小屋の再生をはかろうと努力しているグループ・「でか小屋再生おせっ会」が手弁当で補強と屋根の葺き替えを行ったのですが、その際、全国芝居小屋会議技術部門が調査に入り、この小屋が藩政時代末期に建てられた芝居小屋だということが判明したそうです。
見学会に先立ち、調査に入った公益財団法人文化財建造物保存技術協会の賀古唯義さんが、建物についてのお見立てを解説!
でか小屋は明治以降のトラス工法が取られていない上に、桟敷は和釘が使われている事などから「和小屋」構造と判定できるそうで、こういう造りをしているのは四国の金丸座(←重要有形文化財です)とここだけ!飛び抜けて古い可能性があり、かつ、規模も三都の大芝居小屋に匹敵する大きさとのこと。建設された年代をこけら葺きの屋根の葺き替え回数から大ざっぱに推量してみると天保5年ごろか?(金丸座は天保6年)という数字が出てくるそうで、金丸座より古い…とは言い切れないまでも、いずれ江戸時代ということは間違いなさそう。そして、上手かまちのところから根太が飛び出ているのはお茶子あゆみの跡だろう…と。客席のど真ん中に大きな支柱があるのが不自然だけれども、それも跡から取り付けられた可能性が高く、いずれ、はじめから芝居小屋として建てられた建物であると考えてよさそうとのこと。ただ、惜しいのは前面が4メートルちょん切られていることですが、これも部材が残っているので、復元は可能とみているそうです。
いまは倉庫然としたたたずまいですが、太い梁などを眺めていると、修復の手が入って立派な芝居小屋に復元される様子がありありと想像され(先日、リアル金丸座を体験したばかりなので)、この小屋で慙愧丸やってみた〜い!と妄想が膨らみました。
波の幕の前で、七尾市府中町の若衆が「木遣り」と「七尾まだら」を実演。
実演が終わったら幕が降りて、府中町のでか山にのっていた時代人形が出てきました。
脇には府中町の山車幕が掛けられています。
メインの講演は森まゆみさんの「もういちど、ここでー東日本大震災被災地の文化財救援」
森さん、東北に入り込んでいろいろ活躍してくださっていたんだなぁ〜と、虫六にとっては身近な話でしたが、(あ〜ここは石川県だった)とちょっと温度差を感じたりしました。
後半は、各芝居小屋関係者(ながめ黒子の会、粟津演舞場、八千代座、内子座、井石永楽館、でか小屋)が登壇して、それぞれの小屋の取り組みを紹介。
歌舞伎公演以外にも、地元の人たちにも利用して貰えるように、いろんな苦労をしているのがわかりました。観光コースに施設見学を組み込んでもらう工夫や、小学校の卒業式とか、朗読会とか、ファッションショーとか…
場所をかえて、名倉温泉「あえの風」で交流会。
市のえらい人とか、観光協会のえらい人も参加してました。みんなが口を揃えて、「能登空港を利用してください」と連呼しているのが気になりました。
でか小屋をうまく復元して観光の目玉にできるといいですね。
こんどは重鎮の皆さんによる「七尾まだら」!能登の男性の方々は全員これを踊られるんでしょうか?それも凄いことです。
七尾市内に40くらいの獅子舞の団体があるそうです。
なんつか、この街はすでにソフトは十分あるんですね。小屋ができてもやることがなくて困るということはなさそうです。
このあと、夜鍋談義とかその延長線とか夜は長く続きましたが、でか山祭りのために毎年1200万円を集める凄い(!)おじさんとか、歌舞伎を愛する神官さんとか、七尾は破格で魅力的な人たちが沢山いて圧倒されました。
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