2011年3月31日木曜日

フクシマ問題

○田中宇の国際ニュース解説より

○BS11 田中康夫のにっぽんサイコーより
 *桜井勝延氏(南相馬市長)をゲストにインタビューVTR

○相馬市長立谷秀清メールマガジン2011/3/24より

○日刊スポーツコム

○NHKニュース


東電や政府への批判も怒りもあるし、原発反対の組織からはアレバ社の安全管理体制への批判などもいろいろあるようですが、この際、現場の過酷な状況で必死の復旧作業に当たっている東電のスタッフのみなさんには祈る気持ちで感謝しますし、フランスさんでも!アメリカさんでも!ドイツさんでも!この難局を収束するため支援してくれる国々には、藁にもすがる思いで期待せずにはいられません。フクシマを助けてください。



相馬市に行ってきました(3)_3月30日震災20日目

相馬市に入りました。
目に入ってくるのはビニールシートを被った屋根屋根。
市街地までは津波は襲ってきていないようですが、崩れ落ちた塀や、シートで塞いだガラス窓など、地震の爪痕は生々しく残っています。

虫六と銀子さんが卒業した旧・相馬女子高校の校舎。
先日まで遺体安置所、いまは相馬市と南相馬市の被災者の避難所になっているそうです。

お昼頃、実家に着きました。
お父さん、あの石蔵のヒビはやばいっすよ!!

余震が来ると不味いので、早急に解体してくれと業者に頼んだら、重機が津波の瓦礫回収に使われていて、工事が請けられないと言われたそうです。ぎゃぼ〜!
ご多分にもれず、実家の屋根にもブルーシートが掛けられていました。

両親や兄家族(兄は現場に出ていて不在)とも元気で、とりあえずライフラインも復旧し、この数日で市内のスーパーなどもほとんど開いたので、多少の品不足とガソリンが手に入らないことを除けば、日常生活に支障はない…とのこと。
少なくとも、ガスも通らずトイレが溢れるS市よりも、暮らしやすいことは間違いないですが…。原発がいつ収束するのか先が見えない状況では、安心して暮らせるわけはありません。
しかし、直ぐに逃げたいということもさらになく、住人たちも判断しかねるまま、不安を抱えて日々を過ごしているという感じでした。もっと言うなら、70才を過ぎた父に関しては、どこかに避難するなんてことは本当は考えたくもないということなんだろうと感じました。
そして、いつも実家に帰った時に繰り返される、知り合いの噂噺や老両親の痴話げんかというか愚痴を聞かされ、(緊迫した状況なら、そのまま両親と甥っ子は車に乗せてS市に帰ることもありかくらいな緊張感を持っていたのですが…)ある意味、嫌と言うほど日常な様子を確認したのでした。

ただ、高校生の甥っ子Y君に関しては、通学している南相馬市の高校の授業再開のめどが見えず、同級生の友達には転校を決めた生徒もいたりして、深刻に困っていました。S市の高校に転校するなら、出来ることをやるからといいましたが…、本当に可哀想です。

実家の老犬(ゴン)も相変わらず元気でした。

S市で仕込んだ食材や日用品、白松が最中をお土産に持って行ったら、もっと立派な大根や白菜や自然薯をお土産に持たされました。虫六子はちゃっかり高校入学のお祝いを貰っていました。こんな状況でなければ気持ち良くいただけるのですが…う〜〜ん。

虫六子がいっしょなので、今日中に、できれば雨が降る前に帰らなければなりません。

「また来るからと」実家を少し早めにでて、銀子さんの実家に行きました。
そちらも屋根が壊れて、また水道の復旧が遅かったということで、いろいろ不便そうでしたが、今はライフラインが生き返って心配いらないということでした。
お話好きなご両親といろいろな話をしていたら、ちょっと時間を過ごしてしまい、気がつけば4時半!雨が降ってきました。

慌てて帰路に着きました。先ほどの6号線を抜けて、4号線はまた混んでいるかも?と東部道路を行くことにしました。
名取市からS市若林区にかけて、津波がのみ込んだ荒景が、高速のガードレール越しに垣間見えました。虫六子に写真を撮って貰いたかったけど、助手席で瀑睡していたので、起こさないでおきました。

相馬で聞いた話は、また明日。




相馬市に行ってきました(2)_3月30日震災20日目

国道6号線、山下から坂元に入る辺りかと思いますが…。
(写真は、走行中の車の助手席で虫六子が撮影したものです)

崖崩れ。この下に建物ありました。

産業廃棄物の投棄場かと思うような瓦礫の山が…あったと思うと。

次は汚泥の海となって延々と続いてゆきます。
この辺りは水田と、集落があったような気もします…、記憶をたぐりますが、混乱してきました。

自衛隊のトラックが1台いました。

あの松並木に記憶が甦ってきました。

二階家の家屋が潰れて、瓦礫の中に埋もれています。

工場も骨組みだけになり、トラックや重機もひっくり返っています。

向こうに見えるのは、JR坂元駅かな。

交通規制中。

福島県に入りました。
この辺りも6号線を超えて西側の地域まで、津波は達したみたいです。

ガードレールも潰れてくちゃくちゃに倒れていました。

海岸の方に向かえば、もっと生々しい荒景があるのかもしれません。
こんな樹の根も…。

あれは、新地駅の連絡架橋でしょうか。

家屋も。

6号線を相馬市街地方向に曲がると、津波が作った風景が視界からはなれました。

相馬市に行ってきました(1)_3月30日震災20日目

震災から20日目、ガソリンが手に入ったので相馬市の実家に行ってみることにしました。

相馬市は、相馬野馬追いで有名な小さな城下町で、田舎には間違いないですが、温暖な気候で海の幸も山の幸も豊富な、住民も暢気な、とても優しい町です。

福島県の浜通りは、宮城県や岩手県沿岸と同じく、大地震と大津波という未曾有羽の自然災害に加え、原発事故という人がおこした災害の恐怖にさらされ、自分たちの住む土地を失うかもしれないという局面に立たされています。退避命令こそ出ていませんが、福島第一原発から45キロの相馬市がいまどういう状況なのか、マスコミはなかなか報道してくれず、不安は募るばかり…。私が行ってどうなるモノでもありませんが、親の顔を見てくるだけでも安心かと車を駆ることにしました。

一人でマンションに残されることを恐れて、虫六子がついてきました。

4号線から6号線を通って、相馬市に入りました。虫六は運転なので、助手席に座った虫六子にカメラを持たせました。中学生が車中で撮った写真ですが、何かをお伝えできればと思いアップします。

バイパスに向かう途中、長町の高架線に停車したままのMAXがいました。

4号線バイパスに入ります。
自衛隊のヘリでしょうか?爆音で飛んでいきました。

名取市の遺体安置所である「空港ボウル」の建物。

あちこちにガソリンを待つ渋滞が出来ていて、4号線はなかなか前に進めません。時間だけが過ぎていく…。朝早くに出ようと思ってたのに、出遅れて大後悔。

6号線に入ったら、急に道が空き始めました。
地震で瓦が落ちたのか、家々の屋根にブルーシートが掛けられています。

地割れ。この程度の地割れにはまだまだ補修の手は伸びていません。

亘理を過ぎたあたりで、目に違和感のある風景が飛び込んできました。

2011年3月30日水曜日

ガソリン入った!_3月29日震災19日目

早起きして、6時に家を出ました。
家人Tがポット入りコーヒーとカステラを持ってけ!くれたので、とりあえず朝食持参です。

昨日、ねらいを付けたS市北環状線上にある南吉成のSSへ。
近くまで行くと、すでに長い列が出来ていました。ざっと見、100台はいそうです。列は北環状線のショッピングモール(ホーマックなど)のところから南吉成団地方向に曲がって…先が見えない。最後尾はどこだ?!と車を付けると、ほぼ団地の端っこでした。

私が車を付けたと思ったらどんどん後ろに繋がっていきます。
7時過ぎくらいにSSのスタッフがサインボードを持って出てきて、後ろの方でUターンさせたみたいで、今度は対向車線に列が出来ていきました。このあたりは造成された住宅地で道幅が広いので、中心地のような大渋滞にはなりません。SSの選択は正解だったかも。

7時40分頃、整理券が配られました。111番。やっぱり。
車中ではエンジン落としたまま、コーヒーなど飲みながら待つ。寒い…。
震災前から読んでいる文庫本、まだ読み終えられません。こんな時にでもと思ってページを開くものの、集中出来ず。何度も同じ行を追ってしまいます。

8時過ぎからちょいとずつ動いて、10時少し前に給油完了!満タン入りました!

そのまま職場に直行すると午後から電気を付けるというので、留まって、午後は電源確認してパソコン等復旧。これで、仕事できる…。震災前に準備していた企画は中止になったのですが、まだまだやることありました。パソコン復活したら、あの日常も回路が繋がった感じ。うげ〜。

上司にお断りして、明日、相馬に行くことになりました。

何か不足なモノがあれば…と電話するも、物資は入り始めたから困ってないと遠慮される。リクエストがないので、買えるモノを買っていこうと、一番町方面へ出てみることに。

おお!仙台銘菓「白松がモナカ」本舗、復活!
あんこ煮てますかぁ!

藤崎デパートも1Fと1Bの部分開店はじめていますが、午後3時までだったようです。
震災時の新聞の展示コーナーがありました。戦後の風景ってこんなだったのかな。
仙台名物といえば、笹かま工場とかどうなったのでしょうか?石巻、女川、松島、美味しいかまぼこはその辺りです。

今日の晩ご飯。親子丼、ほうれん草と大根のスープ、ひじき煮、ポテトサラダ、酒(澤の泉)

ガソリン入手できず_3月28日震災18日目

なんとか往復分のガソリンをゲットして相馬に行ってみたいと思っているのですが、「夜中、もしくは朝の4時から並ばないと買えない」「並んでもそのガソリンスタンドが本当に売るかどうかは掛け」「10リットルとか2000円分とかしか売ってくれない」…などの情報も入ってきて、ハイオクしか食べない我が愛車はさらに条件が厳しく、状況を見ていたのですが、9時半ごろガスパパより「現在、県庁前エネオスに並び中、整理券353番。満タン可だそうです。」というメールが入ったので、取るものとりあえず車を出しました。

しかし、渋滞こそしていましたが、すでに整理券の配布は終了していて、ガソリンだけが目減りしたのでした(…撃沈)

悔しいので、車を駐車場に入れて(路駐する勇気なし)、辺りを偵察しました。
ガソリンスタンドでの聞き取りによれば、
 ・朝の開店30分前に整理券を配る。
 ・ただし、明日ガソリンが入るかどうかは分からない。(ちなみに2件目では、「明日は灯油だけしかはいりません」とのこと)
 ・整理券は列の最後尾につければ貰え、(SSにもよるだろうが)500枚配られる。
 ・とりあえず列につけて、そのまま車を置いて出てしまう人がいて、開店したあとでも放置されたままの車で道の渋滞に滑車を掛けていた。それにしても宮城県警のド真ん前や裏道に車を放置していくなんて大した人もいるもんだ。

どうやら、本日どこでガソリンを売るかという情報はネットで仕入れているらしい。

自宅待機中ではありますが仕事も気になるので、午後は職場に行ってみました。
虫六のデスクがある部屋の階にはまだ自由に入れず、電気も通ってなかったので、少し片付けだけして、Oさんのところで話をしていたら、印刷会社の営業K君がやってきました。
会社の施設自体は震災の被害は軽微だったものの、発注先の都合でキャンセルされたりして、仕事にならないとのこと。これまでの主な仕事は買い出し係と会社の車にガソリンを入れること(!)だったそうです。彼もだんだん慣れてきて、自宅の近くに大きなSSがあってよく売るので、朝の4時に車を列につけてそのまま置いてくるのが効率よろしいとかなんとか言っていました。(あんただったよ!)

暗澹たる思いで帰宅。

昨日、食事の時に使える食器が出てなかったので、とりあえず箱に詰めていた生き残った食器を出して選別しました。

お気に入りの揃っていた食器はほとんど1枚くらいしか生き残っていません ( ´;ω;`)
景品でいただいたような食器ばかりは頑丈です ( ̄◆ ̄;)
んぎゃ〜。

晩ご飯は、虫六子のあついリクエストにより久しぶりで生協の唐揚げ(総菜です)。K新鮮館にいったらお刺身を売っていたのでマグロの赤身とビンチョウを。それと昨日の残りの肉じゃがと、ひじき煮、大根のべったら漬け、ごはん。
(我が家の庶民メニューに戻ってきた感じッス…汗)

K新鮮館で、「震災直後にお店あけていただいて助かりました。あの日の鰤の照り焼きの味は一生忘れられない」と、おじちゃんに声をかけたら「そう言ってもらえると嬉しいね」と照れ笑いをしていました。
(でも、あの鰤、マジ旨かったんです)


夜、ネットでガソリン情報を収集。明日は5時半に起きて6時には並ぼうと思う。

2011年3月27日日曜日

自宅に帰る_3月27日震災17日目

今日はガスパ家を出ます。
このたびの余りある温情に感謝して、ささやかながらウチで倒壊を逃れ健在だった「ザッセンハウスのコーヒーミル」を受け取っていただきました。ガスパパさんのミルの歯が丸くなっていたからネ。

切れ味鋭いミルでコリコリしているガスパママ。
このミルの高級感はこの家にこそ相応しいというものですね。

コレが最後の朝食。
朝のダイビングが愛情たっぷりなガスパールにも随分遊んでもらいました。
ありがとう、ガスパ家!

というわけで、お布団担いで自宅に着きましたら、待っていましたよ現実が。

崩れた荷物の中から虫六子が夏休みの絵画コンクールでもらった花の種が出てきたので、二人で植えました。花が咲く頃には復興の見通しがたっていると良いのですが、どうなのでしょうね…。

この花は、虫六子の卒業式で貰ってきた鉢。
卒業式が遅れた11日間、なんとか枯らさないように…と先生たちが一生懸命管理してくれた花です。震災直後からの断水のことなど思うと、相当苦労されたと思う。本当にありがとうございました。ウチで枯らさないようにがんばらねば…。

休日の内に買い物を済ませようと午前中は手分けして食材買い出し。一昨日はそうでもなかった生協も今日は朝から50人くらい並んでました。牛乳ねらいで並びましたが、乳製品は皆無でした。はじめから冷蔵ラックにビニールシートがかぶせてあり、前に別商品のラックが置かれていたので、入荷そのものがないのでしょう。品揃えも全体に少ない感じで、まだまだ購入制限がありました。


S駅もまだ封鎖されていました。

高校が受かったらと約束していた携帯電話を虫六子と買いにいきました。
ヨドバシは通常営業です。あのうるさいBGMが掛かって無くて良かった。
電気ポットとかはけっこうありました。
地震のとき、電子レンジが落ちて割れた食器の上に突っ伏していたのですが、それ以来少し異音が…。そもそも虫六が一人暮らしをはじめた時から使っている20年選手なのでいつ昇天してもおかしくない製品。いろいろ見てみましたが、今時の電子レンジってデカい。レンジを替えるために、台所の食器棚を替えなければならないという事態となってしまいました。とほほ。

外食なんかできるかな〜と思ったら、何げにパスタやさんが営業中。スパゲッティ、カレーが600円。はいってみたら、侮れない仕事がしてある美味しいパスタが出てきて、思わず感激。
安いですよ、このお値段!

17日ぶりの我が家ごはん。
(シャトルシェフで作った)肉じゃが、ほうれん草と豆腐の味噌汁、納豆、野菜サラダ、ごはん
食器が割れて、ご飯茶碗と味噌汁椀などなど発見できず、ちぐはぐな食器でした。
(写真撮ったのに記録されていませんでした…爆。)

今日からお風呂・温シャワーなし。

今日、元気を貰ったニュース
全国のみなさん、「墨廼江(すみのえ)」と「日高見」を飲んで下さい!


2011年3月26日土曜日

今度は下水が…_3月26日震災16日

一難去って、また一難であります。

水道の復旧が進む中、今度は下水施設が壊れてしまったことが判明。
市の9割の生活排水を処理しているS市南蒲生浄化センター、M県仙塩浄化センター、M県県南浄化センターが甚大な被害を受けて処理機能が停止。完全な復旧までは約3年の歳月を要する見込みとのこと。節水しないとマンホールから汚水が溢れ出すそうです。

昼過ぎに銀子さんから驚愕の救援物資が届きました(´;ω;`)
問題ありすぎて写真が出せませんが、爆発事故が起きなくて本当に良かったよ (ノ∀`)
ありがとう!ありがとう!ありがとう!

気になる相馬の状況がなかなか報道されず気を揉んでいるのですが、すぐに現場入りした田中康夫氏がこんな記事を書いてました。

南相馬市の「医療過疎」問題については、毎日新聞が

とりあえず復興の手が入り出した南三陸や宮城県沿岸部に対して、原発の問題が解決しないままの福島県沿岸部には放射能を恐れて救済の手が入っていないし、それを報道するマスコミもいない状態のようです。
まだ相馬市沿岸には重機も入っていないらしい。
……。

夕方、実家に電話。
物資は少ないながらも店は開き始めたとのこと。
「逃げた」と思った掛かり付け医が戻ってきて、父の高血圧の薬がなんとか貰えたとのこと。
津波で上がってきた水が湖のように溜まっている場所があり、堰を切ってしまえば水は引くのだが、遺体も流れてしまうので、自衛隊がポンプで汲み上げている。しかし、なかなか進まないようだ。
などと漏れ聞く。


明日、ガスパ家を出ることにした。
今日が最後の晩餐。虫六子が合格した時のためにと買っておいたシャンペンをあける。
2週間、ほんとうにお世話になりました。ガスパ家の温情には感謝してもしきれません。


スーパー復活の兆し_3月25日震災15日目

朝、ガスパ家から自転車で帰宅。
このマンションに引っ越して来た14年前からよくお見かけしているお隣の「窓猫」さんが、定位置にいました。健在です。

午前中は、片付けしながらクマガイさんほか友人数人に電話を掛ける。実際に話をするとちょっと安心。久しぶりにクマガイ節を聞いて心が晴れる。

昼過ぎに近所の買い物状況をリサーチ。この時間帯は列に並ばなくても入店できます。
買い物するなら午前中ですが、仕事が再開すればそうも言ってられないですね。

おしゃれ生活グッズを販売する「Cッサンの店」でも2Fのお取り寄せ食品や器コーナーを野菜販売などに買えて売り出ししていました。いいものにこだわった店らしく、ちょっとお高めでもありましたが、レジのお客さんに「もう少しですからがんばりましょうね」などど声を掛けてました。

生協は、すでにあまりモノがありませんでしたが、日用品なら選ばなければ手に入るという感じ。牛乳などは品不足のようで、影も形もありません。総菜も再開したようでした。

二日町のK八百屋さんでも、けっこう鮮度のいいお野菜がありました。玉子とガスパパご要望のシメジを購入。

靴下を求めて中心街に向かう途中、県庁前のバス停で長蛇の列発見。高速バスに乗るキャスター付きトランクを引いた人たち多数。
錦町のGSから続いているガソリンを入れたい自動車が勾当台公園をぐるっと取り囲んで県庁に達しようとしてました。やっぱりまだか…ガソリンは。
この辺で雨が降ってきたので、靴下をあきらめてウチに逆戻り。

近所のフレッシュ・スーパーIが開店していたので入店。
お肉も魚もけっこうあってビックリ。Iさん、がんばってるな〜。Iさんが復活したなら生きていけると漠然と元気が出る。しかし、店員のお兄ちゃんは自宅が被災して、避難所から通っているらしい。大変です。
この町ですら、元に戻るまでにはまだまだ時間がかかりそうです。

帰宅したら、郵便局の配達で定形外郵便物が一つ届きました。
横浜のKさんが郵便事業復活のニュースに反応して直ぐに送ってくれた支援物資。
規定内ぎりぎりの段ボールにぎっしりつまった食品、トイレットペーパー、ティッシュペーパー。それ以上につまった優しさに、おもわず胸が詰まってしまいました。

Kさんだけではありません。速攻で救済してくれたガスパ家ご夫妻、心配してメールや電話をくれたり支援物資を調達してくれる、遠方の友人や、秋田の姉、横浜の伯父家族…本当に沢山の人に支えていただいていることを、ただただ感謝しております。心からありがとうございます。

夜、窯爺氏が調達してくれた卓上IHクッキングヒーターを渡すために、ガスパ家にYさんが来る。Tが担いできた米5キロもあげる。卸町付近の様子や演劇業界の動きなども聞く。


2011年3月24日木曜日

買い物せず_3月24日震災14日目

今日から東北自動車道の車両規制が解除されて、一般車両が通行できるようになった。
流通が通常モードになれば、市内の物不足も収束していくことでしょう。
問題はガソリンですが、通勤の車も走るようになってきたので、そろそろ回復してくれるでしょうか?さすがに10時間並んで1000円分のみというのは辛いです。ガソリンスタンド探して往復するだけで、何割か使ってしまいますよね。

朝ご飯は、納豆ご飯。昨日お祝いにいただいた「じゃこ天」が出ました。カルシウムたっぷり。

通勤途中のTより、K木生協近くの八百屋が開いていたとの情報が入りましたが、今日は買い物はやめておきました。もうすぐモノは入って来そうだし、S市の方より津波被災地の方に物資を回して欲しい。

テレビをつけながら片付け作業。
孤立して物資が回らない地区などもあるらしく、津波が打ち上げた家屋の残骸などを薪にして火をおこしている映像など。
女性が中心になって妊産婦をサポートしているNGOが、助産婦のネットワークで乳児用品や衛生用品の物資を調達して支援しようとしていたり、東京都が品物を限って寄付を募って必要箇所に必要な物資を届けるプロジェクトを開始したりしていた。
でも、それが仙台などの倉庫についてもそこから被災地までとどける運送手段がないこと(つまりガソリンが届いていない)が、ネックになってうまくいく状況とはいえないと指摘している人もいて、真実味があった。
どうして、こんなにガソリンが不足しているんだろう。

ともかくも!相馬にいち早く支援に入ってくれた田中康夫氏の支援活動の一助になればと「新党日本 震災復興支援金口座」に寄付金を振り込む。

虫六子が通学校確定通知を持って登校。
H先生に「ミラクル虫六子!」と言われた〜と、渋い顔をして帰って来た。
(あぁ、やっぱりな ( ̄◆ ̄;))
しかし、そんなの全然気にしてないです。この人、有頂天ですから。

地味に片付け…。
余震が大きいので、まだ落ちた荷物は床に置いたまま。
捨てるモノと残すモノを選別したりしたけど、そもそもこの壊れかけた棚をどうすればいいの?方針もないまま、無益な労働をしている感じ。
割れなかった食器もとりあえず箱に入れたままなんですけど…。

夕方、2週間ぶりに三味線に触ってみる。30分ほど練習。全然手が動かなくなってしまった。
うぅ。

5時過ぎ、また大きな余震。虫六子、泣きながらしがみつく。

今日の晩ご飯。
パン、(アラジンストーブで煮込んだ)ベッコフ、フルーツサラダ、ワイン。


お仕事激務で超ガオって帰ってきたガスパママ。食欲無かったらしいのですが、美味しそうなメニューだったので少し食欲が出て、元気を盛り返したようでした。食事ってすごいなぁ。


2011年3月23日水曜日

卒業式、そして合格発表_3月23日震災13日目

朝から大きな余震。福島県が震源のようで、津波・原発は大丈夫か緊張が走る。

今日は虫六子の中学校の卒業式でした。
出かける前に、実家に電話。義姉から今の状況について詳しい話を聞く。不安なことはさまざまあるけど、とりあえず、まだ留まる方向のようだ。Yの高校は住民が避難状態でどうなるか見えないが、校舎が壊れたわけでないので、原発が収束して住民が戻れば先が見えるかもしれないということのよう。兄の車が流されてしまったが、義姉の車は一応健在。兄は土木系の会社員なので、毎日現場に出ていて忙しいらしい。しかし、会社の人たちも被災していて、現場には5〜6人しか出てこない状況とのこと。

張り出された掲示。卒業式の看板は無かったのでした。

震災の被害の中、中学校の体育館は避難所として使われていたのですが、先生方や下級生が綺麗に掃除して、体育館での卒業式を実現してくれました。大変だったと思います。ひたすらに感謝。思い出深い卒業式になりました。
3年間お世話になりました。

帰宅したら、横浜のKさんからゆうメールで差し入れが届いていました!!
心配してくださって、忝ない!
ありがとうございます。

卒業式の余韻に浸る間もなく、今日は虫六子の合格発表でした。
これまでの虫六子人生で最大の挑戦で、親も心配でしたが、無事合格でした。
やったな!虫六子!!
何はともあれ、安心しました。
我が家に、やっと笑顔が戻って来ました。

ご心配いただいていたみなさま、ありがとうございます。
この場を借りてご報告します。

晩ご飯は、ガスパ家のお友だちのうどん屋さんが再開したというので、震災後はじめての外食。「半熟玉子天生醤油うどん(ちくわ天トッピング)」いただきました。虫六子に合格おめでとうとか言っていたら、合格祝いのお土産に「じゃこ天」山盛りいただきました。