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2013年3月11日月曜日

2013年3月11日晴れ

2年前のあの日それぞれの人がそれぞれの震災を経験したように、それぞれの人がそれぞれの2年目を迎えた、と思う。


今日のS市は、朝方うっすら雪が降り、昼頃には晴天だった。
家人Tは明日が後期試験のためY市に泊まりなので、今晩は帰ってこない。2年前の今日は交通が遮断されて帰って来れず、虫六親娘は2人で夜を明かしたっけ。避難所は暗くて、とにかく寒かった。

朝からテレビもラジオも震災関係の特別番組。また市内や被災地の各所では追悼慰霊関係のさまざまなあれこれが行われているようだ。私の場合、そんな何かに参加するということもなく、淡々と一日をすごした。
本来は休日なのだが、午前中はやり残しの仕事と広報物の入稿があったので出勤。昼に戻って、試験休みの虫六子と昼食。虫六子と受験関係の道具を買う約束をしていたので、某所へ。2時過ぎに戻って、途中で銀行に寄りつつ、お三味線のお稽古へ。お稽古に向かう車の運転中に、2時46分をカウント。ラジオで国立劇場の慰霊祭が中継されていて、「黙祷…」と流れる。運転中なので目は潰れなかったけれど、亡くなった方々の魂を思った。ちょうど青葉山を登っている時で、ラジオからも音が消えて、私の車のエンジンの苦しそうな音だけが鳴っていた。

お稽古は「春興」の2部。練習不足でなかなか上がれない。次は「岸の柳」をやると告知される。

一回帰って、楽器を置いて、ガソリンを入れにGSへ。帰りに生協に寄ったら、気仙沼のフルセイル・コーヒーが出店していたので、虫六子のキャラメルモカと自分のカプチーノを持ち帰りで買って帰ってきた。フルセイルのカプチーノはなかなか美味しい。

今日は虫六子と2人ご飯なので、2年前のあの日のことなど思い出しながら話をしようと思う。あの日を境に自分の何かが完全に変わったように思う。でも、このことについてはまだ誰とも上手く語れないのだけど。




2011年11月15日火曜日

水俣病から福島原発事故を考える 水俣・白河展講演会

○水俣病から福島原発事故を考える
   水俣・白河展講演会

日時:2011年11月13日
会場:ホテルサンルート白河
主催:水俣・白河展を開く会
共催:アウシュヴィッツ平和博物館・水俣フォーラム
【プログラム】
司会あいさつ 竹下景子(女優)
主催者あいさつ 小渕真理(水俣・白河展を開く会代表・アウシュヴィッツ平和博物館館長)
講演 森 達也(映像作家)
講演 緒方正人(漁師・水俣病患者)
 (休憩)
講演 鎌田 慧(ルポライター)
座談 森 達也・緒方正人・鎌田 慧・竹下景子
おわりに 実川悠太(水俣フォーラム事務局長)


○覚え書き
(*テープ起こししてまとめたものではありません。ときどき集中力を欠きながらメモしたものから書き出したものであることをご了解ください)

【森 達也】
・「メディアの不作為」について。
よく東電・政府・メディアが一体化してウソの情報を流していた!?と言われるが、そこまでメディアは劣悪ではなかった。しかし、後手に回ったのは事実で、メディアの機能を果たしていなかった。それは事態がよく分かっていなかったからだろう。
事故当時、メディアは原発に入れない、現場にいけなかった。(しかし、入るべきだったと今は思う。)
メディアは人が作っているものなんだから、幻想を持ってはいけない。懐疑的に接するべき。
リテラシーとは元々「識字」のことで、活字メディアが中心の時代は文字を理解する教養が必要だったので、マスメディアになれなかった。しかし、映像(映画)・音響(ラジオ)の発明によってマスメディアが成り立つようになり、その結果、20世紀前半にはナチのような全体主義を生んだ。映像と音が一緒になったテレビはさらに功罪が大きく、メディアはもともと負の作用を持っている。テレビはさらにネットに融合しようとしている。近い将来、メディアはインターネットに収斂されて行くだろうが、それはとても危険な状況である。
・「集団化」について
大きな災難や国難になったとき人は群れる。弱い動物は群れ、強い動物は群れない。人間は非常に社会性の強い臆病な動物だ。震災でも水俣でも、人間の本性として「同調圧力」が働く。そもそも「頑張れ日本」というようなメッセージは被災していない人たちが胸に秘める言葉で声高に発する言葉でない。しかし、被災地の惨状を目にするとサバイバーズギルト(生き残っている罪悪感・うしろめたさ)があるから「まとまろう」とか「誇り・品格」という言葉を言いたくなる。
19世紀は侵略戦争があったが、20世紀は自衛戦争。それを支える集団の意向を伝えるのがマスコミ。メディアは日本をこうしようああしようという気がなくてもそっちに行ってしまう。
原発は現在54基作られ、隠していたわけでもない。でも「安全神話」というものがあり、見逃していた。
モンゴルにはこんな言い伝えがある「羊は頭が悪いから家族が困る、山羊はずるいから家族が助かる」羊は保守的でそのままにしていると動かないので草を根こそぎ食べてしまう。山羊はあちらこちらと動き回る。日本人は羊度が高い。山羊が必要、適正な山羊な数だけ山羊を入れる必要がある。ハイチ31万人、四川9万人、スマトラ20万人が亡くなった。でも、それは他人事だった。いま自分たちがもつ後ろめたさを持って山羊度をあげれば、たぶん日本は変わる。自分たちの意識が変われば、メディアが、国が変わることができる。

【緒方正人】
私は不知火の魚の代理人としてここに来た。日本に54基も原発をつくっておきながら「事故」という表現に違和感がある。水俣はチッソ工場の産廃不法投棄「事件」である。不可抗力の響きがある。
水俣では胎児性患者の年齢が50歳代になった。生まれ育った町が現場で、この問題から逃げられない。「水俣病の時代に生まれ育った」という認識。
海の異変は昭和17年には起きていたが、水俣病の公式認定は昭和31年である。敗戦の時には、すでに次の問題が浮上していた。
「水俣病は文明病の立ちあらわれ」であった。
福島第一原発では海に放射性物質が放出されているが、他の生き物への気遣いがない。プランクトンは?魚は?金でごまかすことは人間社会でしか通用しない。地球や他の生物へは全く通用しない。謝罪できるとしたら金ではない。では何なのか?
保証金は、手切れ金代わりである。そんな金はいらない。自分の初心は狂い死にした親父(緒方さんのお父さんは急性劇症方水俣病でなくなった)の仇討ち。しかし、チッソとは何か?と問い続けて「チッソは自分であった」という答えに行き着いた。
「東電とは何なのか?国家とは何なのか?」
福島の人たちはまじめに生きていたのに、国から棄てられた感じ、誰を信じていいか?という感じを持っていると思う。
しかし、国家は化け物である。
チッソは「JNC」と社名変更した。これは「偽装倒産」みたいなものだ。文明が現代社会の中で最も危ないものの象徴。電化製品に囲まれていながら、「原発反対」には矛盾がないか。外なるチッソ、内なるチッソ、被害者でもあり加害者でもある。
「国」には2つある。①制度国家としての日本、②生国としての日本。生国に毒を撒いてしまった罪深さ。苦しんでいるのは、人間だけでなくて土地そのもの、他の生き物。人間に「目覚めて欲しい」と言っている。本当の豊かさとは何なのか…?ひとりひとりの問い直しが求められている。
ここに住む方向性をこれ以上国に左右されなくてもいいのでは?日本の保険制度、健康制度、年金制度などがものすごいスピードで壊れている。
フクシマと水俣の共通点は、人間の産業社会が生命世界を壊しているということ。別枠の問題でない。責任主体としての人間の真価が問われている。

【鎌田 慧】
7月31日原水禁の大会で原爆の被爆者と原発の被害者が会った。あってはならない出会いだった。「何のための原発反対運動だったのか?」原発を反対しながら、原発の体制を受け入れてしまった。原発の安全利用(アイゼンハウアーの平和利用宣言以来、黙々とやられてきたことに)という大ウソに何の抵抗も出来ていないなかった。中曽根がたてた23500万円の予算は広島に落ちたウラン235の語呂合わせ…など。
昔から「白河以北一山三文」と言われたが、日本の原発の半分が東北にある。奥羽越列藩同盟じゃないけれど、明治政府にこてんぱんにやられたところには原発が押しつけられている。
六カ所村の寺下村長の話。

原発がなければ原爆は作れない、つまり、核武装に繋がっている…とアジルことはできるけれど、そういうことではない。原発をやめたとしても、この先膨大な金が掛かる。
人間が全てコントロール出来ると思ってやってきた。何故か?安いから。しかし、それどころでない事態。経済的な保障だけでなく、子供たちをどうしてくれるんだ。
フィンランド映画「10万年後の安全」の話。
来年の3月11日 福島で大江健三郎さんらと大集会をやります。
___

大友良英
2011年4月28日 東京芸術大学での特別講演から抜粋
「…(前略)…福島の人たち、原発に怒り狂ってると思うでしょう? 怒ってますよ、もちろん。怒ってるけど、言えない感じもあるんですよ。それは福島に育った人なら分かると思うけど、福島のいろいろな土壌もある。原発を推進してきたという負い目ももちろんあるけど、そんなことじゃない。

その本質的なことは何かというと、さっきのナイフの例えになるんですけど、ナイフで刺されて倒れている人がいるとするでしょ。まだ息はあって死んではいないし、病院に運べば大丈夫という人がいる。その人の前に、突然、東京から元気な正義感に燃えた人が来て、「ナイフ、ヤバイっすよね。ナイフ反対運動をしましょう!」と言うのにニュアンスとしては近いと思うんだよ。それはマズイ。マズイというか、まだその時期ではない。それよりも、そのけがをしている人たちをどうしたらいいか、という問題がひとつ。

だけど、ナイフで差されたけがならお医者さんのところに連れて行って縫えばいいよね。だけど今回のけがは、僕は、福島だけの話ではなくて、東京の人も含まれると思うけど、やっぱり「心」だと思うんですよね。「心」とか、オレ、今まであんまり、恥ずかしくて使わなかった言葉なんだけど、心の傷を治していくのは精神科のお医者さんだって言われるかもしれないけど、そういう傷とも違うんですよね。個人の問題ではなく全体が傷を負っている。その大きな原因は、これはもう素朴に、自信を失っていることだと思うんですよ。」

よく分からないけれど、虫六が福島のことを思うときに、何かしら心の引き出しから出てくるのは、この大友良英さんの言葉だったりする。フクシマの人たちはうまくナイフが抜けた状態なのだろうか?…回復に向かうコンディションはまだ整っていないと思う。本当は自信を取り戻すために何をどうすればいいか?そういう示唆を求めているんじゃないのかな?いずれフクシマで「原発再稼働」なんて思っている人がいるとしたら、それはもう狂っているとしか思えないもの。
もちろん、話をくれた人たちは、現場をもって闘って来た人たちです。そして、震災の後ですぐに現場に入っています。フクシマのおかれた状況を誰よりも分かっている人たちだと思います。だから、より慎重に言葉を選んでいるのかも知れなかったのですが、虫六個人としては何となく消化不良のまま、帰りの新幹線に乗ったのでした。

【今日の蛇足】

金欠につき、行きを各停で、帰りは紙芝居ネットワークの定例会があったので時間に間に合わせるために新幹線に乗りました。何とか安く行こうと格安チケットを探したけれど、「白河」というちょっと微妙な駅だったので、うまいチケットが見つけられず、帰りだけ新幹線の回数券を買いました。ところが緑の窓口で白河までの乗車券を買おうとしたら、「小さな旅ホリデーパス・南東北フリーエリア」なる切符を紹介され…。行きが2900円余りのをエリア内乗り降り自由で2500円。特急券を買えば新幹線にも乗れる…。つまり帰りの乗車券分2900円弱が丸損つことでした!!!勘弁しろよ〜であります。
しかも、定例会に行ったら会員の参加なし。世話人2人とゲストのKさんで四方山話をして帰ってきました。どすか?

なんだか、へとへと。



2011年11月13日日曜日

水俣・白河展

11月13日水俣・白河展の講演会を聞くために白河市へ行ってきました。
講演会は午後からですが、展覧会も見たいので、朝7時発の東北本線・各停にのって出発(東京で遊びすぎて金欠のため、行きは各停乗り継ぎということに…)。

白河駅に10時半頃ついて、展覧会会場の「マイタウン白河」へ。
講演会の日と言うこともあるのか、けっこう見ている人も沢山いました。

1時間くらいで見られるかなと見当を付けていったら、けっこう中身の濃いボリュームもある展示で、じっくり見ていたらあっと言う間に30分。奇病の原因を突き止める動物実験の映像に(メチル水銀化合物を盛られたネコが発狂する様子でありました…Σ( ̄ロ ̄lll)…)ぞぞげ立ちながら見入っていたら、「いまから1時間ほどのギャラリートーク」をはじめますという案内があったので、これしかないとツアーに同行。
水俣フォーラムの方の切れのいい解説で、展示会場を案内していただき、水俣病問題の全容をとりあえず頭に入れました。

水俣病という恐ろしい公害病に苦しむ被害者の実態、国家と国策として守られた大企業「チッソ」の責任逃れと被害者の闘争の歴史、水俣病を生んだ環境破壊の恐ろしさ、汚染によって奪われた豊かな海と人々の穏やかな暮らし…などなど、写真やパネルで詳しく紹介・解説されていて、自分がこの問題にいかに無知であったか、自覚しました。有名なユージン・スミスの写真もありました。丸木位里・俊夫妻の「水俣の図」はありませんでした。
20年以上も前になると思いますが、新潟水俣病をテーマにした「阿賀に生きる」というドキュメンタリー映画を観たのですが、その後、あえて水俣病に関心を持つこともなかったのでした。

展覧会は、水俣フォーラムが主催して、これまで東京(1996)を皮切りに、豊橋、つくば、高畠、大阪、沖縄、浜松…と各地で開催されていて、この「水俣・白河展」も震災の前から、白河市にあるアウシュビッツ平和博物館が受け皿となり企画され、実現したものだそうです。
福島原発事故問題をフォローするテーマで「福島市でも南相馬市でもなく、なぜ白河?」と思ったのですが、そういうことのようでした。

そんなわけで、展示そのものも他の地域で展示された内容と同じようで、あくまで「水俣病」を伝える内容、福島に関する内容はありませんでした。
しかし、この先に福島の住民が背負っていくであろう国や東電との長い闘争や病理との戦いを覚悟するには余りある内容でした。水俣病は、問題が収束(国家が蓋を閉じようとする)に向かっては別の問題が出てきて再熱し、また収束され掛かっては別の真実が分かり…と55年に及ぶ長い戦いの歴史があり、まだ解決されていないのでした。国は2007年7月に「水俣病被害者救済特別措置法」を成立させて、九州・不知火海沿岸の水俣病や新潟水俣病の未認定患者を申請が認められれば210万円の一時金や、医療費が無料になる水俣病被害者手帳を支給して救済するとした一方で、加害企業「チッソ」の分社化を認めて(水俣にあったチッソの工場は「JNC」という子会社になってしまったそうです)事実上の免罪をしたと聞いて、その企業の汚い手口や、とにかく問題を終わらせようという国の姿勢に背筋が寒くなりました。
この先、東電がどういう手で責任逃れをするか、福島の人たちだけでなく、よくよく注視して行かなければならないと思いました。

とはいえ、この展示が虫六が期待していた内容だったかというと、正直不十分でした。

福島原発事故のあと、水俣病資料館で「福島原発風評被害_水俣の経験を伝えたい」という展覧会が行われているとニュースで知っていたからです。水俣の人たちは国の対応を求めながらも「自分たちが変わらなければ」と環境都市として生まれ変わることに50年ものあいだ努力されて、クリーンな「水俣ブランド」をつくりあげたというもう一つの歴史を持っています。その土地の立ち直り方に、福島を応援するひとりとして、具体的なヒントが欲しかったのですが、そのことに関する内容はありませんでした。
それはちょっと残念。何か理由があったのかな?

とにかく、展示を急ぎ足でみて、講演会会場へ向かったのでした。






2011年7月23日土曜日

1000年の伝統行事を前を向いて繋ぐ_相馬野馬追い2011

1000年の伝統を誇る相馬野馬追いは、毎年7月23日〜25日開催されます。
今年は3.11の東日本大震災の被害に加え、祭り開催の地域が福島大原発事故の影響で緊急時避難準備区域にあるため、開催自体が危ぶまれていたのですが、神旗争奪戦や甲冑競馬等のメインイベントなども取りやめつつ、規模を大幅に縮小して「開催」すると聞いて、いつものように沿道で行列をお迎えしたいと思い、取るものとりあえず駆けつけた次第。

夕べ夜遅くに虫六子と実家に入って、出陣式を見ようと朝早く出かけました。

相馬中村神社に向かう道。ぼちぼち人が向かっていきます。

神社の下の長友公園。
3件ばかり屋台がありましたが、お祭りって言う感じとも違っていました。

これは野馬追い名物の…馬の落とし物。
町中がこの馬糞だらけになりますの、この日ばかりは。

うっかり悠長に出かけてきたら、もうすっかり神社前は人だらけ。うえ〜全然見えません。でも、みんなお祭りを支えたいって思いはいっしょだね。

出陣の杯を酌んだあと、「相馬流山」を全員で歌います。泣ける。

新聞に寄ると、例年500騎を数える参加が今年は83騎だそうです。津波で亡くなった方や犠牲になった馬や、避難を余儀なくされている地域民の方々…。普通に考えて、お祭りができる状況ではないと思うのですが、亡くなられた方の鎮魂を願い、更には相双地方の復興のシンボルとして、「東日本大震災復興 相馬三社野馬追」と称し実施することしたそうです。
肩に役割と名前が書かれた巾を付けますが、今年は「東日本大震災復興 相馬三社野馬追」という小さい巾が加わっていました。

法螺貝隊が出陣の合図を吹き上げます。

総大将は、相馬家第33代当主和胤(かずたね)氏の長男行胤(みちたね)氏。
弟の陽胤(きよたね)氏も「相馬家」として参列に加わります。
お二人は、震災後すぐに相馬に入ってボランティア活動をしてくれていたそうです。相馬の人たちにとって、とても心強い藩主です。

いよいよ、隊列の陣立てが読み上げられて、行列が出発します。

「一」の旗印はお使番。伝令のお役目をします。見せ場があるので、ちょっと注目です。

お、「つらつらわらじ」だ!

隊列が大手門を出るときに花火がなりました。
花火の音に馬が驚いて、ぐるぐるまわり、見ている人たちにも緊張が…。

大手門付近。思ったより、随分人がたくさん観に来ているなぁ。

行列出発すると、今度は先回りして次の鑑賞地点に移動。あまり暑くないので良かった。

来た来た。沿道は人だらけ。

お使番が隊列から外れて伝令を伝えにいきます。
乗馬が上手な人がやると絵になるね。
ちょっと芝居がかったやりとりでとても面白いので、ここらを観光的にアピールすればいいのにね。
赤い幌は総大将の印です。
総大将が通ると沿道から拍手がわき上がります。

こちらは、相馬家・陽胤(きよたね)氏。

少女武者もいました。凛々しいッス。(虫六子撮影)

白い馬がまた凛々しさを強調。(虫六子撮影)



あれ?見たことある人だと思ったら、初代の栃東(とちあずま)関ではありませんか!!
白い陣羽織決まってますよ〜!

ご神馬と御神輿がくると、「ご信心の方〜」といいながらお布施を集めて行きます。

御神輿は若者が担いでますね。
行列は、このまま相馬市の市街地を横断して、そこからびゅーんと鹿島区へ移動。北郷の陣屋で総大将お迎えの儀式をして、宇田郷と北郷が合体して雲雀ヶ原に行き、翌日(24日)は神旗争奪戦など…というのが例年の流れですが、今年はそのメインイベントが出来ないので、鹿島区を行列したあと、今日の内にお上がり行列(本当は24日)をして帰って来るということのようです。
やっぱり行列だけなので、参列する武者もいつもの猛々しさはない感じでしたが、しょうがないですね。1年でも早くこのお祭りが、全員揃って本来の形で執り行われる日がくることを願うばかりです。甲冑競馬みたいです。

行列が行き過ぎたので、沿道でサービスで配っていた麦茶をいただいていたら、NHK「ニュース9」の大越キャスターをハケーン!お、ニュースで流れますか…。月曜かな?見てみよっと。

いつもなら、この時期は相馬市歴史民俗資料館は「相馬野馬追い」展のはずですが、震災の影響でしょうか、しばらく休館とのことでした。大丈夫なのかな?

本当はお上がり行列もお迎えしたいところでしたが、6時ごろまでに虫六子をS市に届けなければならないので、花火を聞きながら6号線を帰ってきました。お上がり行列は、鎧兜を脱いで陣笠と陣羽織という軽装になります。雨が降ってきたので、ちょっと心配ですが、そんなことも含めてみんな忘れられない今年の野馬追いとなりますね。

24日は原町区の大田神社で「例大祭祭行」が、25日は原町区・多珂神社で「神事・出陣式・あげ野馬神事」が執り行われます。本当は観に行きたいところでしたが、以下↓のようなお知らせもあり、地元の方の迷惑になってはいけないと今年はあきらめました。

「なお、7月24日と25日の行事においては、東京電力福島第一原子力発電所から半径20キロから30キロ圏内の緊急時避難準備区域である神社で実施することから、観覧を勧めるものではありません。状況により制限を設ける場合もありますので、ご了承いただきたいと存じます。(公式HPより)」
関係者のみなさん、頑張ってください。

明るい内に6号線を帰ったら(夕べは真っ暗だった)、まだまだ道には亀裂や段差が沢山残っていてビックリでした。このあたりは本当に復興が進んでいないんだな。

津波が襲った坂元付近。お米の作付けは見送られ、夏草が水田のあとを覆っていました。

【相馬野馬追関係のニュース】

2011年6月29日水曜日

三陸鉄道の駅前で杉良太郎の歌を聴いた

6月29日、ボランティアで三陸鉄道・宮古駅に復興支援イベント「がんばろう!三鉄の集い」のお手伝いに行ってきました。震災で路盤ごと流された三陸鉄道とその周辺地域の市民の皆さんに元気になって貰おうという、ちょっと大がかりなイベントです。
人気演歌歌手の1日駅長任命式、コンサート、東北ローカル民鉄のグッズ販売コーナーなどなど。某国交省からの呼びかけで、ブースは出したいけど人は出せない鉄道会社さんのお店番などがお手伝い内容。

平日だったせいか、鉄道ファンというより、地元の方々が中心です。

阿武隈急行のグッズ販売を手伝いました。
「福島」のキーホルダーとか気合い入れて売っていたら、家を流されたおじいちゃんに声を掛けられて…、家と一緒に100万のゴルフバック流されたけど、こうなるとモノに対する執着とかどうでも良くなるな…、とか。福島も大変だけど、ここらも相当大変なんだよね…、こんな人たちに鉄道グッズとか売りつけていいのか?とか、いろいろ気分は複雑でした。
それでも、「福島をよろしく」なんて言うと、「ホント気の毒で胸が締め付けられるね」といろいろと買ってくださる方もいて、全く頭が下がりました。ここも早く鉄道通って家が建って暮らしが戻るようにと祈らずにいられませんでした。
でも、炎天下、椅子も無く、1日立ちっぱなしはきつかったです、朝は5時30分に出発でしたし(´;ω;`)
(高速の入り口はその時間ですと混んでなくて良かったです)

各ローカル民鉄のゆるキャラも大人気。お子ちゃまとハイ・チーズ!
つか、とにかく暑いんですけど…。
この被り物の内側はサウナだと思うよ。鉄道員も辛いのだ〜〜。


2時過ぎから、演歌コンサート開始。集まった市民2500人(別の報道では3000人)!
遠くで瀬川瑛子さんが歌っています。

山本譲二さんはMCが得意そうだった。キミマロか!と遠くのブースで突っ込み入ってましたよ。仕込みかどうか分かりませんが、宮古市でただ一人のファンクラブ会員の若い女性を引っ張り出して何かやってました。そして、この人には決め歌があったのね、「みちのく一人旅」。「震災以来、何度も心を込めてこの歌を歌ってきました。でもまだ上手く歌えたことがありません」と。(あ、歌手がそんなこと歌う前から言うの、どおなの?)
でも、盛り上がってましたよ。

そして、伍代夏子さん。2500人越しにもお色気ありました。
トリは杉さまこと杉良太郎さん。もちろん「すきま風」歌ってました。(合唱にはならなかったけども)
港町にはやっぱり演歌なんだなぁーと妙に納得しました。

コンサートの〆は杉さん伍代さんご夫妻のデュエットでした。

ラストステージは出演者と民鉄のキャラクター一同が再登場。市長さんがお礼のご挨拶してお開きでした。
最後の最後に杉さんに「Y君、まだ話したりないことある?」と水を向けられたMC好きのYさん「いえ、さっき休憩の時にテレビを見ていたんですが…、菅首相が刺されました」
(えっ?会場内、水を打ったようにし〜〜〜〜〜〜ん)
「蚊に…」
(げろげろ、冗談か〜!?)
会場内から「笑えねー」のひそひそ声…。 
(あのー、ここで放つ冗談じゃないですから、それ…)

いや〜、それにしてもいっぱい集まって良かった。

帰り道、沿岸の方の道を通って帰りました。
宮古駅から2丁下ると、そこから停電…信号がついていませんでした。
がらんと更地になっているか、瓦礫が山になっているか、傾いた家に赤いスプレーで「解体可」の文字。まだ、どこから手を出してよいか…という風にみえました。

山田、釜石、大船渡、陸前高田…と車で走って帰りました。

地域差は多少ありますが、行けども行けども町が壊れている。
気持ちだけで乗り切れるような次元の災害でないと、本当に痛感しました。
薄暮に追われながら高速道路に乗りました。

2011年5月26日木曜日

雄勝法印神楽が復活だ!

3月30日のネットニュースに「雄勝法印神楽_被災地の伝統神楽「4月は無理」 舞台流失、演者は避難所 (共同通信)」と言うのが載っていて、慌てて沿岸部の伝統芸能がどうなったかと調べたことがあったのですが、キュウリさんという方のブログで、各地の民俗芸能が満身創痍の中で、天災に対する浄めの儀式として、地域のつながりを確かめ合う手立てとして、舞い、演奏していることを知り、ちょっと勇気が出たのでした…が、
この度!なんと!
取るものとりあえず、ここに勝手にリンクさせていただきました!

また、雄勝法印神楽のHPでも紹介されていますが、
雄勝法印神楽では今後の伝承活動に向けて「復興支援募金」を開設したそうなのでお知らせします。

(写真は、S市で開催された2004年のマチゲキで虫六が撮影したもの)

石巻市のなかでも雄勝地区は特に被害が酷いとは伺っていますが、ぜひ法印神楽の火を守り抜いて欲しいと、影ながら願っております。
あの勇壮な神楽舞をふたたびこの目でみたいです!





2011年5月14日土曜日

県庁・市役所で震災パネル展示

昨日は、GoogleのBloggerがシステム故障でブログがアップできませんでしたな。
で、昨日(5/13)の報告。

仕事で某T北電力の本社ビルに行ったら、いつも来客を待たせている(というか待機させている)ロビーに、垂れ流し状態でかかっているテレビが「節電」のため消されていました。病院もテレビもそうだけど、待ち合い室のテレビ放映はこの夏全面禁止にしてもいいですよ。(うるさいから)
そして、エスカレーターも止まっているようでした。さすがに、電力会社から節電の見本を示さないとですね。

そのあと、S市役所にいったら、ここのロビーでは震災関係の写真展が。職員が市の施設や被害がひどかった地域を撮影したものようで、けっこう人が見てました。

で、そのあと、M県庁にいったら、ここでも写真展。
こちらは防衛省が撮影した写真で、震災直後と4月や5月になって瓦礫が片付いたりした様子の比較写真でした。志津川辺りはいまだひどい状況というのが分かりました。
自衛隊のみなさん、ありがとう!

対面には航空写真と地図と写真の展示ですが、こちらは凄い…とは思うものの、あまりリアリティは分からず…。分かりやすい説明を工夫してくれると有り難かった…(爆)

2011年5月8日日曜日

相馬の帰省を反芻

相馬市はまだ待避圏内に入っていません。
しかし、津波の被害で海浜地区のダメージは大きく、また南相馬市以南の住民避難の影響もあり、実質的な生産活動や市民生活は困難になっています。

逃げてもいいと言われない状況で、南相馬市の高校に通っていた甥は通学ができなくなり、連休明けから相馬高校を間借りして行うサテライト教室に通うことになったそうです。仙台方面の高校への転校を考えたりしたのですが、「転校するなら宮城県・岩手県は避けるように」との指導があったらしい。両県の高校は自県沿岸部の高校生の受け入れですでに限界だから…。甥のストレス、義姉の心痛を思うと何かしてやりたいと思うけれど、いかんともし難い。まずは連休明けからはじまるサテライト授業を受けてみるとのことでした。

実家周辺は、この景色のどこに放射能が…?と思うほど、穏やかな春を迎えています。

農協の要請だかで、なんと米の作付けをすることにしたということです。
土壌の放射線量は調査しているのだろうか?
作って、その米は大丈夫なのか…。
生産者も消費者も安心できることを確認してから、1歩づつ進めるべきじゃないのかな?

避難しているわけじゃないけれど、相馬の人たちも不安を胸に押し隠して普通に暮らしているんです。まだ、かろうじて汚染されていないという希望も捨てていない。

しかし、枝野さんが南相馬市に来た時にフルアーマー装備でたった5分の滞在だったことを訝しがっている人たちがいます。この政府はまだ何か隠しているのですか?

そして、相馬に残った人たちは、津波でやられた町を作り直そうとしているんです。
でも、多くの人たちが避難してしまったので、人手はありません。
避難先で仕事を見つけたり、そこに住み着いてしまえば、福島に戻ってくることはないかもしれません。その人たちを責めるつもりはないけれど、もう戻って来れない可能性だってあるのだけれど、「過疎」が再生を望む人たちの次の災難になることは避けられないのかもしれません。

放射能を恐れて、多くの母親たちが子供を連れて遠くの町に逃げ出しました。福島の子供たちを守るために…。それは何より大切な行為で、仕方がないことです。でも、その子供たちはもう福島に帰ることはないのかもしれない、と思います。

実家では、次に余震がきて石蔵が崩れると、通りかかった誰かがケガしたりすると大変だから…と、連休中に蔵の解体を進めていました。これからも、この土地で安全に暮らしていくという前提で。

原発は、どうなるんだろう。

ふくちゃんの飼い主のおばあちゃんちでは、南相馬市に住んでいた娘さんとそのお子さん(中学生と小学生)が山形の高畠町に避難して、補助金も出るのでそこでアパートを借りて地元の学校に転校することにしたそうです。町の人たちはとても親切で、1年間はそこに落ち着くことにしたと。高校の先生をしている旦那さんだけが単身で自宅に残っているとか。

ふくちゃんのおばあちゃんご自慢のハナミズキ。
連休で一時帰宅していた娘さんたちが寄って行くはずだと待っていました。

実家の父が何かメモしているなと思ってのぞくと、テレビの外枠情報で流れる待避圏地域の放射線量を毎日時間ごとに付けているのでした。携帯もインターネットもやらない人ですが、科学の知識などもちろんないと思いますが、数値の変化を自分で確かめているようでした。毎日記録して分厚いメモになっていました。

なんの役にたつでもでもなく、相馬のご飯を食べて、漫然と帰って来てしまいました。S市にいても相馬にいても無力感は一緒です。

できれば、「フクシマ」になってしまったふくしまから、自分たちの誇りをもてる「福島」を取り戻して、去ってしまった人たちが帰ってこれるように、町を再生しようとしている人たちの力になりたいと思います。何がやれるのか、まだ分からないのですが…。


【追記】
帰宅したら、福島市出身のミュージシャンの大友良英さんが東京芸術大学で「文化の役目について:震災と福島の人災を受けて」という講演をしていたことを知りました。

大友さんは7月頃から福島に住んで本格的な福島を元気づける文化活動をしようという計画のようです。今日(5月8日)立ち上がった『プロジェクト FUKUSHIMA!』がそれで、活動はUSTREAMを使用したライブ・ストリーミング・プログラム「DOMMUNE FUKUSHIMA!」を媒介に発信されていくそうです。
先ほどまでUSTREAMでトークライブと、大友良英、レイ・ハラカミ、七尾旅人、U-zhaan、それと詩人の和合亮一さんのスペシャルライブをやっていました。
とても力を感じました。自分たちの領域でも何かやれることがあるのかもしれないと。