猿舞座の村崎修二さんが『愛猿奇縁 猿まわし復活の旅』(解放出版社・2015/4/15)という本をまとめられました。(感想文の後編です。はじめから読む人はこちら)
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(photo:N.Kumagai) |
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○ネットワークの1点として
さて、せっかくなので、本書に書かれていない部分を少しだけ加えておこうと思います。「同行記」にもありましたが、猿舞座は里めぐり巡業をする上で各地にネットワークを持っています。虫六もその1点を担っております。数えるとぞっとしますが、もう25年余もボランティアでS市での受け皿探しをしているのです。
上島さんが旅の内側から永い時間を付き合って見ていたとすると、こちらは同じ土地にいて、たまに飛んでくるボールを上手くレシーブするように、公演体制を作るという立場ですかね。
修二さんが初代安登夢を連れていた、関わりはじめの頃なんかは、私もどうしていいか判らないまま五里霧中のうちに公演会場をセットしていた記憶があります。普通に考えれば、こんな役目は肝煎格の町の有力者がやればそんな苦労もないのだろうと思うのですが、なにしろ、こちらは若干二十代の世間知らずの若造です。とてもそんな器量はありません。人づてにお祭りやイベントプロデューサーを紹介してもらったり、商店街をまわったり、学校やお寺、文化施設に売り込みにいったりしてなんとか2カ所でも3カ所でも…と会場を探し回りました。ずいぶんいろんな人にお世話になった気がするナー(遠い目)。
気を使うのは上がりです。そのころ、猿舞座として希望のレートはあったのですが、それですと相応のイベントなどに売り込んでギャラを稼がなければなりません。そういう仕事が1カ所でも確保できれば、投げ銭で小さい商店街まわりでも良いというオーダーでした。しかし、バブルもはじけイベント類も予算が圧縮されてなかなか好条件の仕事が見つけられなくなり、また、去年やったから…というニュアンスを持ち出され、なかなか恒例なものとして引き受けてもらえない状況もありました。虫六の自信のなさや押しの弱さもあったのかもしれませんが。
それでも、やればやっただけ損をさせてしまうような公演にしてはならないという思いもありましたし、自分の力量不足を肌で感じながらも、しばらくは猿舞座の巡業日程にあった実入りのいいイベントはないか、良い条件で公演をさせてくれる受け皿はないか、それを探すことに多くのエネルギーを費やしていたように思います。
そんな風に苦労してイベントを探しても、それが果たしてOKだったのかというと、いろいろ疑問に思うことも多くありました。
まず、多くのイベント会場が猿まわしにとっては過酷な環境で、ガラス張りの建物だったり、騒音がしたり、炎天下だったり、お客さんがものを食べていたり、見物客が流動的な場所だったり、逆に異常に集まってきたり…で、猿にとってはストレスも多く、なかなか芸をやらないというのが常態化していました。修二さんの芸は猿がやらない理由をあれこれ説明しながら、ある意味お客さんにも我慢させて、猿に機嫌をとりながらだましだまし芸をさせるようなスタイルでした。テレビでみた猿まわしを当たり前と期待してきたお客さんにとっては、「本仕込み」の猿は、ぽんぽん素直にやらない「ヘタな芸」と受け取られているようで、胃がシクシクすることもありました。あの頃、修二さんがやっていた「風花」などは今見ようと思ってもみられない一世一代の芸なのですが、その素晴らしさがなかなか伝わらないなーと感じていました。いえ、あの芸をみれば最後はみんなアングリするんですがね。人間と目を合わせる「美しい猿」を見せるだけでも、それは修練のいる凄い芸なのですが、そういうことに想像が届かない、なかなか伝わりにくい時代だと思います。
もうひとつ、猿まわしにとってはやっかいなことがあります。法律です。猛獣扱いのニホンザルは、飼養場所を離れる場合(旅に出る場合)事前に動物管理センターに特定動物を移動するための届け出を提出しなければなりません。なかなか面倒くさい書類なのですが、自治体によって厳しさには差があるようです。ちなみにS市はうるさい方です。そんなわけで虫六は毎年この書類を書くんですが、そのたびに動物愛護法というのは芸能側の見地からはひどい法律だな…と考えさせられるのです。この話も長くなるのでここでは割愛。この定めにより、猿を連れた芸人は基本的に2泊3日以上同じ自治体には滞在できないため、法律的に放浪を余儀なくされます。こんな現実があることを法律を作った政治家は想像もしていないでしょう。
また、宿も大きな問題です。小さなマンション住まいの虫六は一行に自宅の一部を宿として提供できないので、宿泊先の確保にも苦労がありました。このあたりは「同行記」にもあるので繰り返しませんが、最初はなるべく安いビジネスホテルで、かつ、ワゴン車に乗せている猿がいたずらされず休めるところ…というのが条件でした。こちらも出演料でどのくらい稼げるか想像がつきますので、あちこち情報を集めてとにかく木賃宿を探したものでした。しかし、ある年、急にそちらに営業にいきたいと連絡がはいり、それはちょうど七夕祭りの時期でした。上手い具合に七夕イベントに仕事を見つけることが出来てホッとしたら、今度は観光シーズンとあって全く宿がとれません。野宿させるわけにはいかないと探しに探してZ鳳殿の近くの古い旅館の布団部屋をやっとキープしました。まわりは深い森で猿にはよさそうでしたが、食事なしの上、七夕料金で全然安くありません。あとで、この宿への不満をその時共演していたKさんがブログで吐露されたのを読んで、(限界だな…)と感じたことが忘れられません。
こんな具合に私自身もずいぶん勉強させてもらいながら、猿まわしの受け入れを続けてきたわけですが、ここ10年くらいはずいぶんスタンスは変わってきたように思います。
まずは、何が何でもイベントを探すということをやめました。無理にイベントに押し込んでも、猿は荒れる、猿まわしはしんどい、お客は冷たいという負のトライアングルに陥ってしまうと、福を呼ぶはずの祝祭芸がいわゆる“ただの見世物”になってしまいます。そしてそんな風に苦労が大きいわりに最近はギャラもだいぶ圧縮されてしまう傾向があるのです。そしてたいがいが1回きり。だから、なるべく質のいいお客さんが「毎年待っている」感じで来てくれる会場を基本にしようと考えるようになりました。運良く8年前にS市歴史民俗資料館が受け皿になってくれたのを幸いに恒例行事化してもらえるようになり、S市巡業は、まずはここの予定を固めて、次に他の会場を探すようにしています。予算の少ない公共の資料館なのでギャラがいいとは言えませんが、歴民さんもだいぶ慣れて来て沢山の人を呼べるように広報をしてくれます。天気がよければ、集客も増え、雰囲気も良く、暖かいお客さんが投げ銭をけっこう弾んでくれるので悪い興行ではありません。(たぶん)。ここ数年はもう1会場(某大学)での公演も恒例化しつつあり、これも本質的なところで共感が得られた成果だとありがたく思っています。そんなわけで、S市のような中規模の都心ではこういう形で受け皿を作っていくのが現実的かなと考えています。
S市を少し離れて、山奥の村などの巡業についていくと、小さな集落の田舎道を修二さん達が太鼓を叩きながら宣伝に練り歩きます。その太鼓に子供たちがわらわらついてきて、時間になると町の公民館の庭にこの村にこんなに人がいたのかーというくらい人が集まってきて、おじいちゃんお婆ちゃんと子供たちが入り交じって猿まわしののんびりした芸を楽しんでくれます。同じ日本の中にまだこんな光景が残っていたか…と考えさせられます。
子供たちが追いかけてきたあの村は、いわゆる過疎の集落には違いなく、間違っても新幹線は停まったりしないわけですが、猿まわしが来るよと聞いて「経済効果」などという言葉も発想したりせずに集まって、可愛い猿を見て楽しんで帰っていくのだろうと思います。公演のあとで、おばあちゃんご自慢の激旨な山菜料理をご馳走になったりすると、やっぱりなにが豊かさなのかと思う。実は、こんな公演は、村で顔役の人(例えばお寺のご住職)がちょっと声を掛けてくれただけで、あるいはその方がポケットマネーで出せる程度のご祝儀をはずんでくれただけで実現してしまう。あとは村の人が投げ銭を握って見に来てくれれば公演は成立します。(ま、これだけだと猿舞座は永久にお金持ちにはなれないのですが)
猿がストレスを感じるような環境で、人間だけは平気と言うことはないわけで、つまり人間は無意識にそうとう我慢しているにもかかわらず、それを快適と思っているんだろうな。
佐渡でも、能登でも、北海道でも…猿舞座はこんな小さな村々を歩いています。都会と過疎の村々…この狭間を行き来しながら、猿まわしには何が見えているのだろう。「文化」を消費財ととらえず、育てていく道というのは、まだどこかにあるのでしょうか。
もうひとつ、長年の「宿」の悩みを解決してくれたのはS演劇工房10-BOXの存在です。この施設は倉庫街にあるので夜になれば人気がなくなり、猿が落ち着いて休息でき、また、隣にはおおきな公園があるので朝は散歩にも連れ出してやることもできる上に、駐車場で檻の掃除などもさせてもらえます。10-BOXは、公共施設でありながら柔らかい発想で演劇人の創作活動を支援しているのですが、私の相談にも乗ってくれ、短期のアーティストインレジデンスのようなとらえ方で一行を受け入れてくれました。(もっとも前述の動物愛護法の関係で、猿まわしは長逗留はできないのですが…。)このような施設や自治体がアーティストを受け入れる柔軟な体制をとってくれれば、猿舞座のような芸人たちは随分助かりますが、たぶんS市はこの点では恵まれています。
こんなところが紆余曲折の末、なんとか落ち着いたS市の受け皿事情です。(もっとも来年も同じようにいくとは限りませんが…。)
全国で、猿舞座を支援し、受け皿を用意している人や団体は、それぞれその土地の事情に付き合いながら猿まわしの場を作っていることと思います。いつか、そんな皆さんと交流する機会でもあったら面白いだろうなとも考えたりします。
大病のあと、修二さんは少し活動を縮小して、これまでの旅の記録をまとめていくことにするという話をしていました。その最初の仕事がこの本なのでしょう。積み残した山脈のような資料をじっくりまとめて記録としてしあげて欲しいです。
そして、猿まわしの仕事自体は二代目の耕平君に引き継がれていきました。ネットワークの1点としては、今後は耕平君の旅をサポートしなければなりません。「文化は継続だ」と宮本常一氏は言ったそうです。なので、虫六が元気なうちは微力でも付き合っていくつもりです。もしかしたら、宮本先生はどんどん猿まわし的な伝統芸能が生きていける社会でなくなっていくことを読んで、猿まわしを復活させることで、私たちのような「猿まわしが入っていける隙間をつくる人間」を養成し、社会に点在させることを仕掛けていったのかも知れないな…と、思わなくもありません。
だから耕平君にはいい猿まわしになって欲しいです。歌舞伎の名門成田屋の御曹司なみの重圧(いえ、歴史で言ったら猿まわしは歌舞伎の比ではありません!血筋の良さは負けませんが、生涯賃金はだいぶ違いますかね…)に負けないで、がんばってください。
…それから蛇足ですが、本書を読んで思ったのですが、猿飼・耕平には「椿油売り」がいればいいんでないのかな?(余計なお世話ですが…爆)