まんが原作の大ファンだった虫六も、アニメ化のデモ画をみて、これは原作に惚れ込んでいる絵だと直感してわずかばかり一口のりました。
以来、このプロジェクトは制作の過程を細かにレポートしてくださり、また、主人公すずさんから四季折々に葉書が届いたりして、本当に出来上がりが楽しみにしていましたが、虫六も初日の深夜上映に足を運びました。
震災以後、このようなクラウド・ファンディングも一般的になり、いくつかのプロジェクトに投資もしましたが、これほどやった甲斐があったと思うものはありません。
原作の『この世界の片隅に』という作品は、戦時下という狂気の時代を舞台にしていますが、イデオロギーでも、美談でもなく、その時代の広島に生まれて成長し、海軍工廠があった呉で慎ましく暮らしていく北條すずさんという一人の女性を描いた物語で、こうの文代さんの傑作まんがです。
虫六も支援者の一人としておすすめまくりの口コミ大作戦に協力しておりましたが、マスコミでも紹介されていたように、想像以上に話題となり、上映館もまだ増加中だということなので、製作者のみなさんの苦労も報われたと、良かった良かったと喜んでおります。
「すずさんが動いたー!」これがまずは素直な悦びです。
そして、アニメを初見した時から気になっていたことを、そろそろ時間の経過も満たされたかと思い、覚え書きしておこうと思います。
さて、ここからは少々【ネタバレ】になりますので、見てない人はご注意ください。(登場人物のさんづけも省略)
アニメ版『この世界の片隅に』は、原作を十二分に尊重し、その世界観を壊さないよう丁寧に丁寧に作られていたという感想は、原作を知っている人ならみんな持たれたと思います。
例えば、まんがでは基本的(*)にペンで描き分けられていた“すずが描く”鉛筆画や水彩画のなどは、アニメでは原作がそうだったと勘違いするほどにイメージにマッチしたもので、この作画力は凄いと思いました。
*とはいえ原作の方もとても実験的な表現を意欲的に取り入れているマンガで、サイレント映画のようにネームなしで描いたり、歌の歌詞と組み合わせて挿画風に描いたり、絵葉書風にだったり、ペン以外の鉛筆や毛筆や口紅(?)などで描いてみたりして決して平凡な作品ではありません。そういうところも、アニメでは上手に動画に仕立てていました。
聞けば実に精緻な考証に基づいて原作の裏を取りながら作成されたというアニメ版は、現実感を伴って立体的に立ちあがり、また、のんさん(元・能年玲奈)がすずの声を担当したことも話題になり、その声は想像以上に生き生きとしたものだったので、作品に生命が吹き込まれるってこういうことかと感服しました。
そこまで原作を尊重して、いえ、それ以上に作り込まれたアニメ版ですが、1つ描かれなかった、とても重要なエピソードがありました。
「りんどう柄のお茶碗」のエピソードです。
すずが闇市に砂糖(水甕に隠して溶かしてしまった)を買いにお使いにでて帰り道がわからなくなり、遊廓街に迷い込んで巡り会う白木リンという女性。
彼女は、幼い時に草津の祖母の家で西瓜の皮をしゃぶっていて「座敷わらし」といわれた、あの子供だったということがなんとなく知れますが、アニメ版ですと、リンについては深く描かれず境遇の違う女性同士の友情というかそんな印象になっています。でも、原作を読んでいる人は、この女性が周作の(すずと結婚する前の)ワケありの恋人だったということを知っています。
それをすずが悟ることになるエピソードが納屋の2階で「りんどうの柄の茶碗」を発見する場面で、アニメでは省略されていました。
すずというキャラクターは、緊張した時代の空気をほどいてくれるような間の抜けたおっとりした性格で、それでいて「絵が巧い」ということ(これは意図したと言うより作者の特性が反映して…とこうのさんが言っていました)があるわけですが、18やそこらで育った町を離れて嫁いできた若い女性です。
1人の人物の中には、子供っぽさが抜けない未熟さを残した部分(晴美の相手をしている時や憲兵に叱られたところもそうですね)、家族や共同体のなかで役割を果たし大人になろうとする部分、そして、周作とリンの間で女性として目覚めていく部分があり、その入り交じった感がちょっと色っぽく好ましい魅力と感じていました。
しかしアニメでは、そのうち一つがやや省略されて、むしろ「戦争」の日常という部分が強調されたように感じます。しかし、すずの魅力が減らなかったのは、のんの声の力が大きかったと思います。
「普通」とは言うけれど、すずの現実がどういう風に「普通」だったかはその時代を経験していない自分には正直わかりません。東北でも、学校を出てすぐ嫁いでいった女性もいれば、男子が少なくなっているから嫁ぎ先がないまま軍需工場で働いていた人たちや子どもがいる家庭に後家に入った人も少なからずいたと聞きます。また、戦前は家が貧しく学校にも行けずにリンのように遊郭などに売られてしまったり、小さいうちから子守奉公に出されたりする女性もいました。当時、学校を出て普通にお嫁に行けた女性は比較的恵まれた境遇だったのだと思います。リンやテルにも戦時の現実があったことを原作は同じまなざしで描いていると思います。
少し話がそれますが、私が高校の新聞部だったときに、戦時下の先輩たちがどう暮らしていたか興味を持って取材したことがありました。
高校を出てすぐ「顔も見たこともない親が決めた人」に嫁ぐのは当たり前で、話の中心は「ものがないので苦労した話」。ドングリを拾って粉を挽いて食べた…という話を昨日のことのように教えてくれました。
当時は「戦争に反対」とかそんなことを考えるようなことは全く無かったと聞いてちょっと拍子抜けしたというか、戦時下の実感というものはそういうものなのかなと、そんな違和感を持つのは自分が戦後教育で身につけた感性だったんだということを思ったりしたのを、この作品を読んだ時に思い出したものでした。
なので、あの話をしてくれたお婆ちゃんたちの青春時代に重ねて見てしまうのですが、こうのさんは、そんな時代にすずが女性として成長していく物語を、すず・周作・リン・水原の4人の関係の中にとても巧妙に組み立てていました。その意味で、これを省略しては物語のピースが嵌らないじゃないかな?というのが、私の初見の時のひとつ気になった感想でした。
原作のこうのさんが「公式アートブック」(宝島社 2016.9)のインタビュー(P.59)で、本作の連載が決まっていたので、その前に主要な登場人物の子供時代を単発で読み切りで描いたとおっしゃっていました。それは、人攫いの駕篭の中で周作と出会う話(「冬の記憶」月刊まんがタウン 2006年2月号)、お婆ちゃんのうちで西瓜の皮をしゃぶるりんに出会う話(「大潮の頃」漫画アクション 2006年8月15日号)、水原の代わりに白い波のうさぎの絵を描いた話(「波のうさぎ」漫画アクション 2007年1月9日号)の3話のことで、大筋を決めていたあとでこの物語を描いたと考えると、いろいろ想像が膨らんで面白いと思います。
本編の最初に描かれるのは、草津の祖母の家で海苔を取る作業を手伝っている最中に、江波の自宅から電話が入り、突如嫁入り話が持ち出されるエピソード。
「海苔の商いをしてた浦野すずという名の少女」という手がかりで嫁探しをして、浦野家はすでに海苔養殖を辞めていたので探すのが大変だったと親同士の会話があり、窓越しにその様子を眺め周作をみとめるものの会った記憶のないすずは「困ったねぇ、…いやなら断わりゃええ言われても、いやかどうかも分からん人じゃったねえ…」と山の中で独りごちます。
前段に人攫いのプロットがあれば、すずは周作の初恋の人だったのかと考えたくなるけれど、後にリンとの関係があったことを知ると、遊女との結婚を反対された周作が親・親戚を困らせるか結婚話をスムーズにさせないために、幼い時に会ったすずの記憶を持ち出したのかとも想像できるわけです。しかし、すずは探し出されてしまって、周作のもとに嫁に来てしまいました。
若い夫婦として互いの関係を深めていく日常に、そんなエピソードが挿入されると、周作の後ろめたさや、すずのわだかまりも加わり、なかなか陰影を深いものにします。
後段で、水原が入湯上陸ですずの元にやってきて、けっこう大胆に既に人妻であるはずのすずにべたついていることに、夫の周作がなんとなく遠慮がちに接し、あげくに「自分の女房を兵隊さんに捧げる」かのごとく納屋の2階に2人を追って母屋の鍵を閉める場面も、水原がいくら死と隣り合わせの兵隊さんだからといってギョッとする行為です。しかし、自分がそんな事情ですずを嫁にしてしまったことへの後ろめたさが心の裏側にあるのかと思うと、少し腑に落ちる部分もあります。周作は、水原をすずの「本当に好きだった人」と思い諮り、すずのことを不憫に思ったのだろうかと想像も膨らみます。
しかし、すずの心はとうに周作にあり、さらに嫁としての自負も芽生えていたので、むしろこういう行為で傷ついてしまったわけですが。
本編で、とても重要なセリフのいくつかは、周作とリンの関係があってこそ深みを増すものになります。
その一つは、すずが周作にノートを届けに行って映画に誘われ“しみじみニヤニヤした”エピソード。
2人で映画をあきらめて橋の上で周作が「すずさん、あんたを選んだんはわしにとって多分最良の現実じゃ」という場面。その前に、「過ぎたこと、選ばんかった道、みな覚めた夢と変わりやせんな」とつぶやくセリフ。(そして、このあとの展開で、周作とリンの関係が輪郭を顕すのですが…)
さらに、リンも、すずが周作の嫁であることに気がついたあとに、お花見にいった場所で偶然にすずと出会い、2人で桜の木に登り、亡くなったテルちゃんの口紅を形見に渡しながら「ねえすずさん、人が死んだら記憶も消えて無うなる。秘密は無かったことになる」という切ないセリフ。
また、晴美の手を引きながら利き腕ごと時限爆弾に吹き飛ばされてしまい、深い喪失感の中に自分の居場所を見いだせなくなったすずを導くことになる言葉は、リンの「だれでもこの世界でそうそう居場所は無うなりやせんよ」というセリフ。
アニメはリンの存在をはっきり描いていないので、こういう言葉は少し意味合いが変わってしまっています。
リンは登場人物のなかでは北條家の家族などに比べても重い存在としては登場しませんが、周作との関係を示す「名刺大に切り抜かれた周作のノート」は何気なくありましたし、空襲後にリンの消息を確かめるために朝日遊郭へ向かう場面にオーバーラップされた「口紅で描かれたリンのおいたち」もエンドロールのアニメにされて、原作を知っている人は分かるという作りにはなっていました。が、原作ファンとしてはもったいないと思ってしまいます。しかも、エンドロールの方は「クラウドファンディングに支援した人」の名前が流れるところで、私も初回は自分の名前を探すのに必死で見逃してしまい、これは、私も(ああ、ここに…)と2回目にみて確認しました。
そこには片淵監督のアニメ化にあたっての意図があったとは思うし、それが無くても多くの人が作品を絶賛するほどの完成度であったことは文句の言いようもありませんが、でも、原作を知らない人にはなかなかこの機微は伝わらないだろうなと思いました。やはり、原作は原作、アニメはアニメということなのでしょう。
まだまだ、原作を読めばさらに、アニメをみればさらに、気がつくことはあるのだと思うのですが、まずは自分が引っかかったところを覚え書きしました。
この日記を最後まで読んでくださった方がいたら感謝です。そして、ぜひ原作まんがを読んでいただけたら嬉しいです。
他人の見方を入れたくなかったので読むのを控えていましたが、同じ点を気にした方も少なからずいたんじゃないかと思います。
公式アートブックと映画パンフレットのこうのさんのインタビューを読んだきりで、数々の感想ブログや批評などを「積ん読」しておりましたが、そろそろ解禁してみようと思います。
手始めに「ユリイカ」の特集号でしょうかね…。年が明けても、『この世界の片隅で』マイブームはしばらく続きそうです。