…午前中に少々盛りこみすぎて、予約時間が迫り(庭園美術館は予約制なのでした)慌ててお昼抜きで参りました。(貴重な京都の昼ごはん1回分が…がんばれオレ…!)
京都大学の脇を通り過ぎ、左京区吉田神社の表参道まで足を伸ばすと重森三玲庭園美術館があります。
昭和24年(1949年)に三玲が主宰し中川幸夫のほか土門拳や小原豊雲などが参加した前衛いけばなの創作研究グループ「白東社」の集まりもこの邸宅で行われ、また、彫刻家のイサム・ノグチも何度も訪れていたとか。三玲は、訪れる数多くの学者・文化人、ときに高名な禅僧まで、自ら床の間の花を生け茶を点てて迎えていたそうです。戦後京都の文化活動のサロンとしてもっとも強い磁場を持っていた場所の一つといえましょう。
(*重森三玲旧宅は、東側・書院庭園部が「重森三玲庭園美術館」として一般に公開され(予約申込制)、三玲の遺族によって管理・運営されています。西側の旧宅主屋部は独立した施設「招喜庵」として文化芸術分野で活用されており、通常、一般公開は行われていません。)
なにしろ美術館ですので、撮影させていただいた写真をどこまでこのような拙ブログに載せてしまっていいのか分かりませんが…、関係者の方、NGならご一報ください。
三玲が好んだという書院の中からみる枯山水庭園。フレーム効果で一枚の絵画のようにも見えます。三玲はこの座敷の奥から見える四季折々の景色を楽しみ、また、縁側に煙草盆を前に正座して自作の庭を眺めながら思索に耽っていたそうです。
この平らな大きな石は「礼拝石」といって、もともと神官の住まいだった古い庭の時から神事のために庭の中央にあったものだそうです。この礼拝石だけは残して、三玲が好んだ徳島産の青石(緑泥片岩)で石組を追加したのだとか。
三玲は礼拝石の後ろを蓬莱神仙と見立てて、鶴石組の三尊石組を「蓬莱島」とし、立石で東から西に「方丈」「瀛州(えいしゅう)」「壺梁」の3島を配しているのだそうです。
そして何しろユニークなのがこの「舟形石」。宝船のようにも、古代埴輪の舟のようにも見える。よくもこんな変わった形の石を見つけ出したものですね。三玲は庭に据える石は必ず自分で山に出向いて探してきたそうです。
浮かんでいるように見えますが、意外に深く地中に埋まっているらしい。
美術館の館長は、三玲のお孫さんにあたる重森三明氏。いろいろ詳しくガイドしてくださいました。
苔の管理は難しく移植したものは結局枯れてしまうのだけど、その後生えてきたものは定着するんだとか。スギゴケを中心に10種類くらいあるんじゃないかとのこと。
こちらは非公開の茶室「無字庵」。
茶室の庭でもありますので、飛び石の先に何気なく結界石が置かれております。おまじないかと思ってしまいました。
ざっぶーん、大海は茶室の奥にまで及びますか。
こちらは公開されている方の茶室「好刻庵」、昭和44に三玲が自ら設計して建てたそうです。照明器具や調度品も凝っていてこれもオリジナルデザイン。そしてここにも市松模様が使われております。桂離宮をリスペクトしているのだとか。
このほかにも、遊び心ある石が隠れていたり、樹木についてもエピソードがいろいろあって、見学時間はあっというまに過ぎてしまいました。
日本庭園はメタファーがいっぱい。知れば知るほど、広く複雑な宇宙が広がっていきますね。
このあと、日本の電車発祥に深い関係ありの琵琶湖疎水の記念館〜蹴上インクラインの方まで足を伸ばしてみたのですが、それはまた別の機会に…。
帯状疱疹もまだ癒えない体力で、ちょっと欲張りすぎてヘトヘトになった京都2日目でしたー。
【本日歩いた歩数】29,199歩
「重森三玲の庭案内」別冊太陽の地図帳026(平凡社 2014年)
「重森三玲 永遠のモダンを求め続けたアヴァンギャルド」シリーズ京の庭の巨匠たち1(京都通信社 2007年)
重森千靑「日本の10大庭園 」(祥伝社新書 2013年)
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