2009年10月8日木曜日

「時分の花」と「まことの花」_歌舞伎座10月公演その2

歌舞伎座10月公演の夜の部は、通し狂言『義経千本桜』でした。


『義経千本桜』は、『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』と並んで義太夫狂言の3大名作と言われています。3つの作品は、人形浄瑠璃の作品として延享・寛延年間のたった3年の間に作られ、いずれも大阪竹本座で上演されており、それぞれ合作者制度によって3人の作家が幕ごとに担当を分けて競作していたそうです。ですから、時代背景や起きる事件は違うのですが、3つの作品は全体を通してみるとよく似た物語の構造を持っています。

『義経千本桜』の場合は、全体の主人公は源義経と静御前、武蔵坊弁慶ということになりそうですが、源氏との戦いで討ち死にしたはずの平家の貴公子たち(知盛、維盛、教経)が身をやつしながら実は生きているという素っ頓狂な設定で、史実とは違う3つの虚構の物語を生んでいます。

3つの物語は、
二段目「渡海屋・大物浦」が船宿の主人に身をやつしながら安徳天皇を庇護している知盛が復讐のチャンスをねらって最後の決戦に挑むけれども、ついには碇とともに海に沈んでいく壮絶な話、
三段目「木の実・小金吾討死・鮓屋」が、いがみの権太という不良息子が父親が維盛を匿っていることを知り、自分の女房・子どもを犠牲にして親孝行しようとするけれど、誤解されて父親に刺されて死んでしまう話、
四段目「吉野山・川連法眼館」が、義経が静に預けた宮廷の重宝「初音の鼓」は雨乞いの時に千年の劫を経た夫婦狐の皮で出来ていて、その子狐が親を慕って義経の家来の佐藤忠信に化けて静に付き従って旅するのだけど、川連法眼館の館で本物の忠信が現れて正体がばれてしまう話
…(乱暴なプロット解説ですみません)となっていて、今回はそのうち、二段目と四段目の上演という事になります。ちなみに歌舞伎と言えば『勧進帳』(!)の義経・弁慶は、『義経千本桜』とは関係ないみたいです。

いやはや、蘊蓄が長引いてスミマセン(;´▽`A``

今月は
二段目「渡海屋・大物浦」
 渡海屋銀平・実は知盛_吉右衛門
 銀平女房お柳・実は典侍の局_玉三郎(なんと初役1)
 ほか(←これまた省略してスミマセン)
四段目
 忠信_菊五郎
 静御前_菊之助
 逸見藤太_松禄
という顔合わせです。

四段目は特に音羽屋の当たり役ですからね。目をつぶってもやれる感じで、不遜な言い方をすれば緊張感を感じないというか、どこかリラックスした感じでした。実は、虫六は20年以上前の歌舞伎デビューの頃に音羽屋の狐忠信を見たことがあります。その時は動きも切れがあったし、ケレンな仕掛けにも悉くはまって面白かったので、印象深く覚えていたのです。音羽屋さんもあとン年で古希らしい。そう考えると、欄干の上でぴょんぴょん跳んで見せたり、ぐるぐる回ったりしているその身体能力たるや恐ろしいですね。しかもリラックスした感じで。

そんな枯れの境地にさしかかってきた(なんてこと言っていいのかな?)菊五郎丈と対照的に、芳香を放っていたのは菊之助丈の静御前なわけです。

菊之助丈は、見るたびに何故か「時分の花」という言葉が前頭葉に浮かんできます。(中村七之助丈にも最近特にそんな感じあるんですが)
「時分の花」という言葉は、世阿弥が『風姿花伝』の中で、「観客に感動を与える力を「花」として表現している。少年は美しい声と姿をもつが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は心の工夫公案から生まれると説く。」(Wikipedia参照)と表したその「時分の花」の事ですが、虫六は原書を読んだわけでもないので、「イメージ・時分の花」ですね。文脈からするとあまりいい意味ではない感じ。しかし、「花」というからには、たとえ俳優だからといっても誰でも持っているものでもないわけで、気品であるとか、立つだけで放たれるオーラとか、耳さわりよく通る口跡とか、いろいろな点から菊之助丈には大輪の花を感じさせられるのでした。で、こういう存在感を「時分の花」と言うのだろうか?と思うわけです。

で、そう考えると、玉三郎丈などは「時分の花」の時期を超えて「まことの花」の領域に入っているのだねぇ…などと、ひとり納得していたのですが、今回その考えを訂正しなければならないエピソードが昼の部でありました。

ちょっと話がそれますが、私は昼の部の客席が好きです。特に花道脇の辺りは、役者さんの後援会や友の会筋からチケットを買っている芝居好きのキャリアの長そうなご婦人方と隣り合うことが多く、「最近膝が痛くて…」とか「○○さんのお坊ちゃんもお嫁さんもらって…」とかいう話と同じレベルで芝居や役者さんの噂噺が飛び出してきて、田舎ものの虫六はカルチャーショックをおこしながら、耳をそばだててしまうのです。

それで、今回、『蜘蛛の拍子舞』の時でした。玉三郎丈が白拍子姿の美しい女性から、女郎蜘蛛の正体がばれて隈取りの妖怪の姿に変化し、頼光・綱と派手に戦う段になったときです。

 おばあちゃん1「あら、玉三郎どこ行ったのかしら?」
 おばあちゃん2「そうね。あの人別の人よね?」
 虫六・心の声(ええ?!あの、玉三郎いますけど…あの舞台の中央に…)
 おばあちゃん1「隠れちゃったのかしらね?」

これどうですか?のんきな会話と聞き逃せない、玉三郎丈の抱えているやっかいな課題を見た気がしました。

最近、六代目中村歌右衛門という俳優に関心があるのですが、たとえ政治的とか言われようと、舞台の上での大成駒屋さんの存在感というのは圧倒的だったのだろうと思うのです。私も映像や写真でしか見ていないので断言は出来ないのですが、特に晩年の成駒屋さんは、単に美しいを通り越してグロテスクな雰囲気すらあったように感じるのです。何人かの劇評家がニュアンスの違いはあるのですが、異口同音に、美しさと黒々とした闇とが同居したような歌右衛門の存在感について書いています。たぶんですね、いったんこういう「美」を知ってしまうと、洗練とか完成度とか、そういうことだけでは満足できない「美」の基準が出来てしまいますよね。すると、「まことの花」の基準は単純に「時分の花」の延長にはないということかなと思います。清濁入り交じった、現と怪しの境目が分からないような存在感。そういうものを含み込んだ「美」なのでしょうか。物の怪の隈取りをしても「玉三郎、こわーい」と誰にでも分かる揺るぎない存在感を持っていないとならないのでしょう。

最近の玉三郎丈は、あまりお姫様ものをやらなくなって、能狂言や変化ものなんかが多いような気がするのですが、それはこれからの方向性なのかも知れないし、彼自身の中にも満足していないものがあるのかも知れませんが、先のおばあちゃんの発言からすると、玉三郎丈にもまだまだ伸び率が用意されているんだなぁと感じたわけです。本当に歌舞伎役者の修業の道は奥深いなぁ。

というわけで、来月は義太夫狂言の3大名作のひとつ『仮名手本忠臣蔵』の通しだそうです!
こりゃ大変だぁ。
仁左衛門丈の由良之助であります。観に行けるのかなぁ、虫六…?

 

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