2011年10月4日火曜日

畠山直哉 Natural Stories_東京都写真美術館

昨日までのてんやわんやに一区切り付けて、10月2日、虫六が黒く変身してお江戸の空の下にやってきました。
今回の黒いミッションは、例によって新橋、および、有楽町あたりなんですが、ちょっと時間に余裕があったので、久しぶりに恵比寿の東京都写真美術館まで足を伸ばしました。

というのも、「畠山直哉 Natural Stories」が、ちょうどはじまるという情報をかぎつけたからであります。

今回のテーマは初期から現在に至るまでの仕事のうち、自然と人間との関わりを改めて俯瞰するような作品を中心に構成しているとのことで、「LIME WORKS」や「Underground」のシリーズはなくて残念でしたが、

「Untitled /Another Mountain(タイトルなし/もうひとつの山)」(2005)
「Terrils(テリル)」(2009-2010) *最近写真集が出たばかりの新しいシリーズ
「Atmos(アトモス)」(2003)
「Ciel Tombe(シエル・トンベ)」(1991,2007)
「Zeche Westfalen Ⅰ/Ⅱ Ahlen(ヴェストファーレン炭鉱Ⅰ/Ⅱアーレン)」(2003-2004)
「Untitied / Moon(タイトルなし/月)」(1999)
「Lime Hills(ライム・ヒルズ)」(1986-1990)
「Blast #12113-#12117(ブラスト #12113-#12117)」(2005)
「A BIRD/Blast#130(ア・バード/ブラスト#130)」(2006)
「TWENTY-FOUR BLASTS 2011」(2011)*35mmフィルムの連続写真を高解像度でスキャンした動画

…という構成。
発展し膨張する都市の、その対極に存在する削り崩される石灰石の山、鉱山、溶鉱炉、取り壊される炭鉱の建物…を俯瞰に捉え、肉眼では見えないだろう光のない洞窟の中の岩肌や、発破をかけられ爆発する岩石の飛び散る瞬景を印画紙に収めた作品などなど。
自然の、圧倒的なエネルギーや、存在自体の神々しさが圧巻の、静謐な作品群。
入り口付近に細密なスケッチが1枚あり、「うわぁあ、畠山さんて描ける人なんだ!!」と驚きまくったのですが、これはカメラ・オブ・スキュラで転写した作品のようでした… ((・(ェ)・;))
リトグラフのようなマチエールの写真ぽくない作品もありました。
なんというか写真なんだけど、絵を見るような濃密さがあるのですね。(こってりしているという意味ではない。ある、心地よい濃度があるのです)。何故か17世紀バロック絵画の光など思い出してしまったのは、私だけ?

写真家の作品は、世界のどこかにあるのだけれど、当たり前には目にすることのない光景の表現が魅力ともいえましょう。

この時期の展覧会ですから、震災の前から時間をかけて、写真家と美術館が準備してきた内容なのだとおもいます。これだけで、充分に満足できる展示です。
しかし、展覧会には、こららのシリーズとはちょっと異質な作品が入りました。

「Kesengawa(気仙川)」(2002-2010)
「Rikuzentakada(陸前高田)」(2011)

写真家は、陸前高田の出身でした。
震災後、育ったその町に入り撮影した作品も展示されると聞いて、畠山さんの震災後の作品を見てみたいと思い、足を運んだのでした。

しかし、その作品は「震災後」の表現と言うよりも、「震災の」写真でした。

震災の後、眼前に津波被害をうけた場所でこそないけれど、東北の一都市に住んでいる自分は、今も津波が根こそぎ営みをさらっていった町の光景や、瓦礫が山になったり、建物や大木をなぎ倒したり、町中が冠水したり、人気がなくなった廃屋などの映像を毎日毎日目にしています。それは報道カメラマンが映したり、地元のカメラを持っている人が映したり、自分自身が映したりした、夥しい量のイメージです。自然の圧倒的な威力は、「畠山がのぞいたファインダー」に寄らなくても、すでに本当に嫌と言うほど目にしてきました。そういうたくさんの映像と、畠山さんが撮った震災の写真にどういう差があるのか、私には分からないと感じたのです。

「陸前高田」の写真は、212×263mmの同サイズのフレームに収められて60点並べられていました。
対峙する壁面には、同じフレームが1枚あり、震災以前に時間をかけて撮られた「気仙川」のスライド映像。「畠山さんも人を撮るんだ!」と意外な印象を受ける、ふるさとのお祭りやそこに暮らす人々を映した、珍しいテーマのシリーズでした。それが、カシャカシャと留まることなくエンドレスに映写されて、向かいには60枚の破壊された町の写真。
写真で何かを表現しようと言うより、むき身の写真家が、撮るという行為の中で、ごく個人的なご自身の記憶を確認していきたかったのかと感じました。(いえ、あくまで想像なんですが…)。そう思うと抗しがたい喪失感が伝わってきて、私自身の喪失感にも共鳴して、しばらくその部屋から出られなくなりました。
写真家の個人事情もいろいろとあったそうです(それは図録に記述があります)。

写真家・畠山直哉が、震災を超えてどんな写真を撮ることになるのか、期待を込めて注目していきたいと思います。




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